賀茂川の情景20170514

賀茂川の情景20170514


京都市内には2つの大きな川が流れています。そうです、かもがわとかつらがわです。

「桂川」は、上流が保津川下りの保津川ですが、嵐山の舟遊びのあたりは大堰川(オオイガワ)といい、渡月橋の少し上から桂川となっていきます。

一方、鴨川は色々な字が充てられてきました。

「鴨川」は高野川と賀茂川が合流する出町公園から下流を言います。

高野川は日本の歴史史上阻害された出雲族が主に住んでいた高野地区から流れてきます。そのせいではないと思いますが昔はよく大水で洪水となり悩まされたそうです。

賀茂川は出町公園から上流を指します。

平安京ができるよりずいぶん前に、鴨族が奈良の葛城の里あたり(現在の御所市辺り)から移住?してこのあたり一帯の住み着き、出雲族を駆逐した形跡が見られます。

鴨神社の総本宮は今でも御所市にある「高鴨神社」となっているのをご存知の方は少ないでしょう。

歴史の話はさておき、鴨川は鴨族の鴨からきているのではないかと思います。


水がぬるむ季節になると鴨川は家族・若者たちの広場となってにぎやかになります。

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この項 <完>





# by mo-taku3 | 2017-06-14 11:44 | 京都風情 | Comments(3)

東京柴又公園(矢切の渡し・山本亭等)20170523

東京柴又公園(矢切の渡し・山本亭等)20170523



地図上でもわかる通り、帝釈天の横には江戸川が流れている。

その江戸川の河原が柴又公園で球技など広い地域を占めている。

帝釈天から江戸川の堤防を越えた先にあの歌で有名な「矢切の渡し」がある。そしてその先、川を超えると対岸は千葉県である。

この矢切の渡しは現在も不定期に渡し船が動いている。乗ってみたかったが時間が決まっていなかったのであきらめることにした。

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矢切の渡しから帝釈天へ戻る途中「山本亭」という大正時代(1923年)に建てられた民家がある。山本亭とは、大正末期に建てられた趣ある書院造に西洋建築を取り入れた、和洋折衷の建築が特徴の建造物である。
ここにはアメリカの日本庭園雑誌「ジャーナル・オブ・ジャパニーズガーデニング」で第5位(東京で第1位)に選ばれた庭園がある。

入場は有料だが、庭園を眺めながら抹茶をいただくことができる。

昔ながらのその時代の特徴を取り入れた建物と、池が配置され整えられた庭園はいつまでも眺めていられる素晴らしい庭園である。

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遅いお昼でたまたま開いていたもんじゃ焼きの店で気炎をあげてきた。


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この項 <完>





# by mo-taku3 | 2017-05-28 12:52 | 日本の四季 | Comments(0)

寅さんの柴又帝釈天20170528

寅さんの柴又帝釈天20170528


寛永年間(1629年)の開山とされ、柴又七福神の一つ毘沙門天としても有名。安永8年(1779
年)に、本堂改修中の梁上から日蓮聖人作とされる帝釈天のご本尊が発見された。その日が庚申(かのえさる)であったことから、庚申の結縁の始まりとされ、庚申の日には縁日が行われ、現在も「庚申まいり」には大勢の人出で賑わっている。

それよりもこの帝釈天を有名にしたのは何といっても寅さんの「男はつらいよ」でしょう。

ロングランの映画で、渥美清の寅さんと一作ごとのマドンナ。それと妹さくらの倍賞千恵子などが繰り広げる悲喜劇。

ロケも実際のこの帝釈天と参道のお店(現存の高木屋老舗)とフル活用されている。

その帝釈天に行ってきた。

京成上野駅から京成高砂で3駅しかない京成金町線に乗り換え柴又駅に着いた。

柴又駅で昔からの仲間二人と待ち合わせしたが、寅さんとさくらさんが出迎えてくれた。

ちょっと驚いたのはここは日蓮宗のお寺で正式名称は経栄山 題経寺ということだった。

大変な人出であった。


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この項 <完>





# by mo-taku3 | 2017-05-28 11:01 | 日本の四季 | Comments(0)

京都鴨川沿いを散策20170527

京都鴨川沿いを散策20170527


高瀬川は、二条大橋の南で鴨川西岸を併走する「みそそぎ川」(鴨川の分流)から取水する。二条から木屋町通沿いの西側を南下し、十条通の上流で鴨川に合流する。

この立て札は、船廻しのあった場所でこのあたりから東鴨川までと南の正面通りまでが、(まだ調べはついていないが)任天堂の旧館(山内任天堂;現存している)を中心に料亭や料理旅館など往時の歓楽街を思わせる風情がある。

正面通り・正面橋の由来は、方広寺の大仏殿(現存していないが、跡地がある)の正面にあたる通りということでまっすぐ大仏殿に突き当たる通りということである。
鴨川は納涼床がが盛況でまた河原には沢山の人出がみられ、いよいよ京都の夏の風物詩の一つが見られるようになった。

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高瀬川船廻し場跡の駒札には次のように書かれている。

「豊臣秀吉が天下統一の後、その権勢を誇るものとして「天下泰平」祈願の寺・方向寺(大仏殿)を建立した時、その資材(石材)を瀬戸内の島より諸大名に命じて、伏見港から京へ搬入するために、天正十四年(一五八六)、当時の豪商・角倉了以に命じて、御土居の外に沿って掘らせ、慶長一九年(一六一四)、現・一之舟入(二条)から伏見まで息子素庵と共に開通させた水路(運河)が高瀬川である。 その後、この高瀬川は、京に米・材木・薪炭・などの他、日常雑貨なども運び込む大切な通路として、大正九年(一九二〇)まで使われていた。 当時使われていた高瀬舟「舟兵(二文字を合わせて一字)」は、水深の浅い川に合わせた船底の浅い平らな舟で急流を荷を積んで乗り切れるように「高背」即ち船べりが高く造られていた。子のような舟で五、六隻一度に繋いで十四、五人の船頭たちが両岸に造られた普通の道より一段低くなった綱場を、ホーイ、ホーイと抱え声を掛けながら背に架けた綱で引いて上がってきた。 当時この辺りの川幅は、九メートル余りあり、岸は砂浜のようになっており船廻し場となっていた。また、ひと・まち交流館東南角の菊浜区民会館辺りに回漕点があり、ここから上流六条坊門(五条)にかけての舟繋ぎ場には、いつも何艘かの高背舟が繋がれていたと言われる。 五条~七条間に架かる橋は、人が橋の下を綱を引いて通れるように門樋橋(榎木橋)・七条小橋などみな高くしてあり、六軒橋・上の口橋は階段式(十段ほどの石段)と成っていたため、人は渡れても車は渡れなかったし、正面橋は橋までが急な上り坂に成っていたため、材木などを積んだ車などは、両側から綱をつけてまだ後ろから人が押して渡っていたとの事である。 尚、この川に因んだものとして木屋町通り・(大仏)正面通り・梅湊町・富浜町・納屋町・材木町などの通り名や町名があり、当時正面通り木屋町東には米の取引所が有り、その「米浜」と言う名が郵便局名として残されている。」


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この項 <完>





# by mo-taku3 | 2017-05-27 16:48 | 京都風情 | Comments(0)

平安京の西の守り「松尾大社」20170517

平安京の西の守り「松尾大社」20170517


701年(大宝1年)に創建された京都最古の神社。

京都洛西の総氏神であり、開拓、治水、土木、建築、商業、文化、寿命、交通、安産の守護神。特に醸造祖神として酒造家の崇敬が厚い。

現在の本殿は1397年(応永4年)に造営された『松尾造り』とよばれる特殊な形式で重要文化財に指定されている。

神像館では神社所蔵の重文等身大座像3体を始め、摂末社で祀られていた18体の御神像も常時展示されており、神像彫刻の歴史を知る上で大変貴重な資料となっている。

松尾山の山頂付近には「御神蹟」と称する磐座が残る。

上古には松尾山頂の磐座(御神蹟)で祭祀が行われたといわれるが『秦氏本系帳』では、大宝元年(701年)に勅命によって秦忌寸都理(とり)が現在地に社殿を造営し、松尾山の磐座から神霊を同地へ移したのが創建になるという。

秦忌寸都駕布(つがふ)が初めて祝(神職)を務めたといい、以後はその子孫が代々奉斎するとする。

社殿創建以前の祭祀については、未だ明らかではない。

松尾大社に関する古い伝承には、大山咋神が鎮座するという『古事記』の伝承、宗像の中部大神(中津島姫命)が鎮座するという『秦氏本系帳』の伝承、秦氏に加えて賀茂氏も創立に関与したとする『秦氏本系帳』の別伝承の3種類が存在するが、これらの解釈には不明な点が多い。

なお、社殿を現在地に定めた理由も定かでないが、平成26年(2014年)3月に本殿背後の樹木を伐採した際に巨大な岩肌があらわとなったことから、松尾山頂の磐座での祭祀にならってこの巨岩のそばで祭祀を行うことを志向したのではないかとする説が浮上した。

また、松尾大社には奉納された多くの酒樽が並ぶ。

狂言「福の神」によると、松尾神は「神々の酒奉行である」とされ、現在も神事に狂言「福の神」が奉納されるほか、酒神として酒造関係者の信仰を集める。その信仰の篤さは神輿庫に積み上げられた、奉納の菰樽の山に顕著である。松尾神を酒神とする信仰の起源は明らかでなく、松尾大社側の由緒では渡来系氏族の秦氏が酒造技術に優れたことに由来するとするが異説もある。

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この項 <完>





# by mo-taku3 | 2017-05-17 13:09 | 京都風情 | Comments(0)