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車折神社の「芸能神社」2021303

車折神社の「芸能神社」2021303



京都でも芸能神社は幾つか見られるが、この「車折神社」は近年急速に、奉納する芸能人や芸舞妓さんたちの札が膨らんできているように見える。かなり以前からのもあるが、札をかける場所がどんどん広がってきている。中には大物芸能人の札も随所に目にすることができる。また、朱をさす桜も沢山植えられており、今は早咲きの桜が満開である。女性に人気のある神社である。

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この項 <完>





# by mo-taku3 | 2021-03-03 10:10 | (神社)京都の神社 | Comments(0)

車折(くるまさき)神社境内の桜2021303

車折(くるまさき)神社境内の2021303



桜の時期に少し早すぎると思いながら、ひょっとしたらの気持ちで早咲き桜がある「車折神社」に出かけてみました。ドンピシャ当たりの桜が満開でした。ご満悦で帰ってきました。ご覧ください。

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車折(くるまさき)神社境内の桜2021303_e0237645_23070759.jpg


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この項 <完>





# by mo-taku3 | 2021-03-03 10:00 | (桜情報)京都・関西 | Comments(0)

車折神社の境内021303

車折神社の境内021303



車折(くるまさき)神社は、東映や松竹の撮影所が近くにあり、映画やドラマのロケによく使用されている。嵐電にはこの神社「車折神社」の駅があり、真向かいにこの神社がある。

本殿には画家「富岡鉄斎」の筆による「扁額」が架かっている。鉄斎は一時期この神社の宮司を務めていた。

儒学者清原頼業が文治5年(1189年)に亡くなると、清原家の領地であった現在の鎮座地に廟が設けられた。祭神の頼業は、学問で有名な「広澄流清原氏」の出であり、自身も平安時代後期の著名な漢学者・儒学者であった。大外記の職を長年務め、晩年には九条兼実より政治の諮問を受け、兼実から「その才、神といふべく尊ぶべし」と評された。

社名の「車折」については、後嵯峨天皇の大堰川遊幸の際、社前で突然車が前に進まなくなったので、不思議に思って社の者に問うた所、頼業公を祀ると答えがあったので、「車折大明神」の神号と正一位の神階を贈ったことから「車折神社」と名付けられたという。

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この項 <完>





# by mo-taku3 | 2021-03-03 09:55 | (神社)京都の神社 | Comments(0)

粟田神社の粟田祭を彩る「粟田大燈呂」20210301

粟田神社の粟田祭を彩る「粟田大燈呂」20210301



粟田神社粟田祭に登場する風流行列に出てくるのが「大燈呂(灯篭)」で、動くからくり仕掛けの動くねぶた(大燈呂)と言われている。

戦国時代の公卿山科言継の日記である「言継卿記」の永禄10年(1567年)には、「粟田口の風流が吉田(山?)へ向かうということを聞きましたので、夕方に吉田へ向かいました。大きな灯呂が二十あり、その大きさはおよそ二間(3.6)四方もあり、前代未聞のことで大変驚いた」と、粟田周辺の風流行列に大灯籠が出ていた事などが描かれている。

しかしその後、大勢の見物人が殺到し、けが人が続出した為、この風流行列は中止になったとされる。この神事が途絶えたのは少なくとも天保3年(1832年)以前と言われており、天保3年(1832年)以降途絶えたが、平成20年(2008年)に、粟田神社清々会(氏子)の依頼で、関本徹生(京都造形芸術大学教授)がプロジェクトを組み、学生たちと大燈呂を制作。180年ぶりに復活・再生し、現在も「粟田大燈呂プロジェクト」として、京都造形芸術大学との連携のもと継続して開催されている。 2008年の復活時は5基で登場したが、徐々に台数を増やし、現在(2014年)では平均10基で巡行しており、京都では珍しい光ものの祭となる。

制作手法は木・針金・和紙・塗装と同じであるが、4年前からからくり仕掛けを施し、動くねぶた(大燈呂)として独自の造形美を追求している。造形のモチーフは粟田神社の祭神、粟田周辺の歴史的資源を素材としており、地域振興としての意味合いも持っている。これらはお役目が済んだ燈呂(灯篭)です。


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この項 <完>





# by mo-taku3 | 2021-03-01 14:30 | (祭特集)京都のお祭り | Comments(0)

京都ぶらり街歩き(④松原公園の桜)20210228

京都ぶらり街歩き(④光徳公園の桜)20210228



光徳公園の東隣が、京都産業大付属中学・高校があり、下京区のJR上鳥羽駅が近くにあります。この公園は結構広く、地域の親子連れ・子供たちで賑わう所となってます。公園は整備されている感じで、四季の花が咲くようにもなっており、花の咲く時期も考えられています。この公園の入口には下の画のような小鳥の、オブジェが並んでいてかわいいので、印象に残るところです。
今は、早咲きの桜がきれいに咲き始めています。

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この項 <完>





# by mo-taku3 | 2021-02-28 14:20 | (風景・風俗・散策・見学)ぶらり京都 | Comments(0)

京都ぶらり街歩き(①松原通・商家)20210228

京都ぶらり街歩き(①松原通・商家)20210228



松原通は元五条通ということは、何度か載せておりますが、この通りは清水寺への参道でもあります。そのためこの通りの往来は賑やかだったと伝わっていますが、今でも150年以上の老舗も少なくありません。新旧併せていくつかご紹介します。
この項では商家を題材に取り上げました。
まず、京菓子の老舗(明治26年創業。京都人に言わせると、まだ駆け出しというと思いますが?)「末富」があります。「野菜煎餅」、「うすべに」といった商品が有名です。ちょっとした大事な使い物に利用されるようです。

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他には、婚礼衣装の店、糸屋さんなどがあり、


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創業元禄13年(1700)の金箔の会社として有名な、「福田金属箔粉工業」という会社があります。ここが創業地だそうです。


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その他、陶器・漬物・和菓子・などの店がります。もっと東になりますが、刃物の「有次」が今でもあります。


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この項 <完>





# by mo-taku3 | 2021-02-28 13:30 | (風景・風俗・散策・見学)ぶらり京都 | Comments(0)

京都ぶらり町歩き(東山その④)20210227

京都ぶらり町歩き(東山その④)20210227



京都の街を皆さんにご紹介方々、カメラでつづってみたいと思います。
第一回目の試みとして、東山周辺をご紹介したいと思います。
今回は、河原町通松原から「八坂の塔」を通り、清水二年坂から四条川端通の「南座」までを①~④回でご紹介します。

さてその京都街歩き(東山その④)は。
(東山その③)では、霊山から高台寺までを見てきましたが、ここでは、ねねの道から圓徳院・大雲院・八坂神社と通り、四条大橋東詰辺りまでをご紹介します。

高台寺から台所坂を下りてくると、下り切ったところが「ねねの道」になります。

このねねの道は、東山区の高台寺西側を通る道で、かつては高台寺道と呼ばれていました。道の名は、高台寺に祀られている豊臣秀吉の正室、北政所(ねね)からきていることはご存知と思います。高台寺から見て道を右手に進むと八坂神社に通じ、左手に行くと一寧坂、二寧坂や産寧坂を経由して清水寺に行くことができる観光ルート上の便利な道になっています。近年、電線地中化工事が行われ、1998年(平成10年)に約2,500枚の御影石が敷かれて美しい石畳の道になりました。



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台所坂を下り切ったむかいが長い塀連なっている「圓徳院」です。


「圓徳院」は、備中国足守藩主で北政所(高台院)の甥にあたる木下利房が、伏見城の北政所化粧御殿をこの地に移築して自らの邸としたことに始まりです。利房の死後その菩提をとむらう寺となり、利房の院号「圓德院」をそのまま寺号として高台寺の塔頭となりました。

圓徳院には「国の名勝」となっているのが、桃山時代の典型的な枯山水の書院庭園で、これは、「賢庭」が作庭した伏見城北政所化粧御殿前庭の池泉回遊式庭園を移築したものに、その後小堀遠州によって整えられたのが今日にまで伝わる姿であるそうです。全体に巨岩を多く配置した珍しい庭園としても知られているようです。

圓徳院の重要文化財として、伝長谷川等伯筆の山水図32面(襖絵)がおかれていますが、元々は大徳寺の塔頭「三玄院の方丈」に飾れていたものだったと言われています。ここにも明治維新の廃仏毀釈の影響で、三玄院から流出してここにあるようです。

この襖絵にはこんな逸話が残されています。

「等伯は三玄院の住持春屋宗園に襖絵を制作することを懇願していたが、宗園は“修業の場に絵は不要”と相手にしなかった。ある時宗園が2か月ほど留守をすることを知った等伯は、この時をとらえて三玄院に押しかけ、客殿に上がり込み、一気呵成にこの襖絵を描いてしまった。帰ってきて事の次第を知った宗園は立腹しつつも絵の出来栄えには感嘆し、結局この襖絵を認めてそのままにしたという。」

この襖絵の料紙を調べてみると、作画にはおよそ不向きな雲母刷り胡粉の桐紋様の唐紙であることが分かり、この逸話は事実に近いのではないかと言われています。



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左の塀の途中に「三面大黒天」が祀られているお堂が見える。この三面大黒天は、出世、勝利、学問、芸術、幸福、安全、無病息災、子授け、芸能上達、家運隆盛などの信仰を集めている。

「三面大黒天」とは、

護国豊穣の福の神=大黒天、
必勝と財運の福の神=毘沙門天、
福徳財宝と技芸・教養の福の神=弁財天、

をいう。
単独でも強力な天部が、三位一体となった不思議で最強の福の神像です。
秀吉はそれを生涯、念持仏とすることで、強力な勝負運(金ヶ崎崩れの殿(しんがり)志願で成功、中国大返しによる明智光秀討伐)と、ありがたい良縁(織田信長・ねねとの出会い)、そして大金運にも恵まれたと言われ、ありがたい念持仏とされています。

驚いたことに、これにあやかって「三面大黒天」像が高台寺圓徳院公認で売られておりました。



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高台寺月真院の前には、「御陵衛士屯所跡」の駒札が立てられています。内容は,

「ここ高台寺月真院は、慶応3年(1867)6月から11月にかけて、熱烈な勤王主義者で、孝明天皇の御陵衛士伊東甲子太郎(いとうかしたろう)ら15名が屯所とした寺院である。彼らはこの寺院を本拠として活動していたため「高台寺党」ともよばれていた。伊東は常陸(ひたち)(茨城県)の出身で学問優秀、剣は北辰一刀流の名手であった。元治元年(1864年)江戸から京に移り、新撰組に入り参謀となったが、近藤勇や土方歳三らと意見を異にし、慶応3年3月、新撰組と袂を分かち、同志14名をつれて、御陵衛士に任命され、ここを屯所とした。この中には江戸の試衛館時代からの隊士、藤堂平助の姿もあった。それからは、薩摩藩の援助をうけ、雄藩を廻ってさかんに勤王を説いた。慶応3年11月18日、伊東は近藤勇から酒席の接待を受けた帰り、油小路木津屋橋で待ち伏せしていた新選組に謀殺され、さらに伊東の遺体を引き取りに来た多くの同志新選組隊士によって斬られ、御陵衛士隊の活動は終止符を打った。」とありました。



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大雲院は、天正15年(1587年)、正親町天皇の勅命を受けるという形で、貞安(じょうあん)を開山として、織田信長・信忠親子の菩提を弔うために、信忠が討たれた二条御所跡(烏丸御池)に創建し、大雲院と名付けた。寺院名は信忠の法名であり、それをとってつけられたといいます。

しかし、同年中に京都改造計画を理由として、豊臣秀吉の命にて四条寺町南(四条河原町、下京区)に移るように指示され、天正18年頃に四条に移ったと言われ、この時、後陽成天皇による勅願所ともなっている。その後、度々、火災で焼失し、明治初期に再建されたが、周囲が繁華街となったことで、1973年(昭和48年)の髙島屋京都店改築工事に伴い、東山区の大倉喜八郎旧邸の一部を買い取って現在地に再移転し今日に至っております。現在、本堂の背後に山鉾を模した祇園閣(通称:銅閣寺)が立っている。(特別拝観時には上れます)

また境内墓地には石川五右衛門の墓があり、これは処刑前に市中を引き回された五右衛門が大雲院門前に至った際、貞安が引導を渡した縁によると伝わっています。


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*祇園堂と祇園女御供養塔

平安時代、1105年に祇園女御は、祇園社(八坂神社)の巽角(東南)の広大な敷地に祇園寺(尊勝寺阿弥陀堂)を建立したという。真言宗であり、祇園堂には丈六の阿弥陀堂を安置していました。堂には祇園女御が住んだという。その後、1111年、祇園女御は、仁和寺内に威徳寺を建立し、晩年はそこに移っています。阿弥陀堂のその後については不明だが、荒廃したといわれています。その跡地には、天台宗の蓮花寺が建立され、後世、草堂坊舎一宇のみが残っていたといいますが、近代に入りこれも廃寺となっています。現在、跡地には「祇園堂」とその横には、この地を耕す者には、必ず祟りがあるということなのか「祇園女御供養塔」が立てられている。

さて、祇園女御について、平家物語には、祇園社(八坂神社)に残る「忠盛灯籠」の逸話が伝えられています。

「白河院は、祇園感神院(八坂神社)への参詣の途中で、美しい女性を見初めた。宮中に召し入れ、祇園社の巽(東南)に御所を建てて住まわせた。このため、祇園女御と呼ばれたという。
永久年間(1113-1118)、五月雨の夜、白河院は祇園女御のもとへ赴く途中、前方に鬼(光を放つ怪物)を見たという。直ぐに供の平忠盛に成敗を命じたが、忠盛は殺さずに生け捕りにした。それは鬼ではなく、蓑を被った社僧(老法師)だったという。社僧は、油壺と松明を持ち、灯籠の燈明に火を灯すところだった。白河院は、忠盛の冷静沈着ぶりと、その勇気に感動したという。白河院は忠盛のこの武勲に対して、寵愛していた祇園女御を与えたという。この時女御は既に懐妊しており、白河院は、産まれた子が女児であれば白河院に、男児であれば忠盛の子とすると約束したという。産まれたのは男児であり、忠盛が育てたのが平清盛だったという。(平家物語)
「また異説として、忠盛が賜ったのは女御の妹だったという説がある。清盛とは白河院と女御の妹との間の子ということである。清盛が3歳の時にこの実母は亡くなり、その後、女御は養母になったともいう。」

八坂神社(祇園社)境内に、忠盛の伝承に登場する「忠盛灯籠」が立てられています。



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*京都市円山公園音楽堂

円山公園の一画にあり、音楽をはじめ各種の文化事業、慰楽事業、集会等に利用できる施設として昭和211月に開堂。2528名収容できる、自然環境にめぐまれた野外施設。


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浄土真宗では宗門(派)毎に立派な廟所を持っています。
これは、東本願寺(大谷派)の廟所で「大谷祖廟」といいます。立派な参道で初めて見た人は何だろうという感じでしょう。


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*八坂神社の本殿が2020年国宝に指定されたことで、注目を浴びています。

八坂神社は、慶応4(1868)530日付の神衹官達により「八坂神社」と改称するまで、感神院または祇園社と称していました。創祀については諸説ありますが、斉明天皇2(656)に高麗より来朝した使節の伊利之(いりし)が新羅国の牛頭山に座した素戔嗚尊を山城国愛宕郡八坂郷の地に奉斎したことに始まるといわれています。

また、一説には貞観18(876)南都の僧円如が建立、堂に薬師千手等の像を奉安、その年614日に天神(祇園神)が東山の麓、祇園林に垂跡したことに始まるともいわれています。

伊利之来朝のこと、また素戔嗚尊が御子の五十猛神とともに新羅国の曽尸茂梨(そしもり)に降られたことは、ともに『日本書紀』に記されており、『新撰姓氏録』の「山城国諸蕃」の項には渡来人「八坂造(やさかのみやつこ)」について、その祖を「狛国人、之留川麻之意利佐(しるつまのおりさ)」と記してあります。この「意利佐」と先に記した「伊利之」は同一人物と考えられています。伊利之の子孫は代々八坂造となるとともに、日置造(へきのみやつこ)・鳥井宿祢(とりいのすくね)・栄井宿祢(さかいのすくね)・吉井宿祢(よしいのすくね)・和造(やまとのみやつこ)・日置倉人(へきのくらびと)などとして近畿地方に繁栄した。

天長6(829)紀百継(きのももつぐ)は、山城国愛宕郡八坂郷丘一処を賜り、神の祭祀の地とした。これが感神院の始まりともされている。そして、八坂造の娘を妻とし、男子のなかった八坂造家の職を継承したといわれ、その後裔である行円(ぎょうえん)は、永保元年(1074)に感神院執行となり、以後子孫代々その職を継ぎ、明治維新による世襲制の廃止まで続いていました。

その後、八坂神社は、時の権力者に手厚く保護されてきたようで、明治4(1872)に官幣中社に列格、大正4(1915)には官幣大社に昇格した。


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*壹錢洋食

京都の祇園の大和大路通り沿い(四条)にある、名物グルメ壹錢洋食(一銭洋食)は、店名と商品名が同一の昔懐かしい京風お好み焼きです。九条ねぎに竹輪、国産牛肉や卵など具材も豊富で栄養満点のようです。祇園でお手頃な値段で食べられることから地元の人から観光客まで大変な人気となっています。


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*南座には、渡辺えり・八嶋智人による「お染与太郎珍道中」の看板が出ていました。


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東山周辺をご紹介①~④がこれで完結です。
次の街歩きぶらり旅を企画します。









この項 <完>





# by mo-taku3 | 2021-02-27 14:00 | 「京都の観光」道案内 | Comments(0)

京都ぶらり町歩き(東山その③)20210227

京都ぶらり町歩き(東山その③)20210227



京都の街を皆さんにご紹介方々、カメラでつづってみたいと思います。
第一回目の試みとして、東山周辺をご紹介したいと思います。
今回は、河原町通松原から「八坂の塔」を通り、清水二年坂から四条川端通の「南座」までを①~④回でご紹介します。

さてその京都街歩き(東山その③)は。
(東山その②)では、清水道の八坂の塔から、一寧坂・二寧坂を見てきましたが、その③では、霊山観音~高台寺辺りを、京都の街の眺望と花木を含めてご紹介します。
この鳥居は、霊山護国神社の鳥居です。この境内には、昭和45年(1970年)明治維新関係の資料を展示する、「霊山歴史館」が開設されています。

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1862年(文久2年)、時宗霊山派の正法寺のなかの「神道葬祭場霊明社」において、有志者による神葬祭が行われた。祭神は菊理媛神・速玉男命・事解男命の3神(相殿には3神)。

1868629日(慶応4510日)、明治天皇から「維新を目前にして倒れた志士たちの御霊を奉祀するために、京都・東山の霊山の佳域社を創建せよ」との詔が発せられた。(この裏には、木戸孝允の並々ならぬ尽力があったと伝えられている。)それもとに公家や山口・高知・福井・鳥取・熊本などの諸藩が語らい、京都の霊山の山頂にそれぞれの祠宇を建立したのが、神社創建のはじまりであり、招魂社である。靖国神社よりも古い歴史を持っている。

当初の社号を「霊山官祭招魂社」と称して、龍馬のほかに、木戸孝允、中岡慎太郎、頼三樹三郎、梅田雲浜、吉村寅太郎、平野国臣、久坂玄瑞、高杉晋作、所郁太郎、宮部鼎蔵、田岡俊三郎ら幕末勤王の志士1,356柱を祀ったが、その後、1936年(昭和11年)の支那事変(日中戦争)をきっかけとして、国難に殉じた京都府出身者の国事殉難者を手厚く祀ろうという運動がおき、1939年(昭和14年)41日、内務大臣布告によって現在の社号、「京都霊山護国神社」と改称されている。ここには、明治以降の、日清戦争、日露戦争、太平洋戦争などの戦死者を合わせ約73000柱も祭神として祀られているという。

1997年(平成9年)、大東亜戦争(太平洋戦争)を記念した「昭和の杜」が設けられ、インド独立50周年を記念し、極東国際軍事裁判にて、ただ一人、被告全員の無罪を唱えたインド代表判事パール博士の顕彰碑などが建立されている。




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この道は高台寺の駐車場の方を見てますが、下の次の写真の奥に高台の三門が残されています。場所的に考えると、高台寺は広大な敷地をしてめていたことが分かります。


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メジロが桜の木で蜜を吸っていたので写真に捉えようとしましたが、残念ながら上手くいきませんでした。


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東山を背景に優美な慈悲のお顔をたたえたひときわ高い「白衣の巨大観音坐像(高さ24m)」が立っていのが高台寺の広大な駐車場から眺められます。これは昭和30年、第二次大戦戦没者の慰霊の為、建立されたといわれています。本堂内に十一面観音と仏舎利、二階の観音胎内に十二支の守り本尊を安置しており、境内に願いの玉、縁結びの愛染明王堂が置かれています。


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絶好のポジションで八坂の塔が捉えられる場所があります。この場所から撮った写真が京都の東山の紹介には殆ど出てきています。
ほんとにきれいにとれますし、夕日が沈むときはこれまた素晴らしい画になります。


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高台寺の広大な駐車場からは、こんな京都の街の眺望が望めます。


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高台寺の梅の木です。


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高台寺について

高台寺は豊臣秀吉の正室である北政所(高台院)が秀吉の冥福を祈るため建立した寺院です。寺号は北政所は落飾後(仏門に入る)、高台院の院号となりました。その院号から高台寺(通称)と言われていますが、正式には臨済宗建仁寺派の「高台寿聖禅寺」といい、秀吉と北政所を祀る霊廟としての性格をもった寺院です。

豊臣秀吉が病死したのは慶長3年(1598年)であった。秀吉の正室である北政所(ねね、出家後は高台院湖月心尼)は秀吉の菩提を弔うための寺院の建立を発願し、東山の現在地に新たな寺院を建立することになりました。秀吉没後の権力者となった徳川家康は、北政所を手厚く扱い、配下の武士たちを高台寺の普請担当に任命しています。中でも普請掛・堀直政の働きは大きかったようで、高台寺の開山堂には直政の木像が祀られています。高台寺の開山は慶長11年(1606年)で、当初は曹洞宗の寺院でしたが、寛永元年7月(1624年)、高台寺は臨済宗建仁寺派の大本山である建仁寺の三江紹益を中興開山として招聘し、この時、高台寺は曹洞宗から臨済宗に改宗しています。なお、北政所は同じ寛永元年の9月に亡くなっています。

創建当時の高台寺の仏殿は、北政所の実母が眠る「康徳寺」の堂を移築・改造したものですが、方丈、茶室などは伏見城から移築したものでした。また、門前に伏見城の化粧御殿が移築されて、北政所の居所とされたところで、高台寺の西側にある塔頭の圓徳院がその跡にあたり、北政所終焉の地として伝わっているようです。

その後、近世末期から近代に至る数度の火災で、仏殿、方丈などを焼失しており、創建時の建造物で現在残っているのは、開山堂、秀吉と北政所を祀る霊屋(おたまや)、茶室の傘亭と時雨亭(茶室はともに伏見城からの移設)などである。

霊屋(おたまや)の堂内装飾には桃山様式の蒔絵が用いられ、これを「高台寺蒔絵」と呼び、他に北政所所持と伝えられる蒔絵調度類を多数蔵することから「蒔絵の寺」ともよばれています。

庭園は、小堀遠州作とされ、しだれ桜と萩の名所となっています。石組みの見事さは桃山時代を代表する庭園です。

この日は参拝しませんでしたが、高台寺の正面(庫裏)です。受付は庫裏の左手となります。



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左手に門がありますが、そこから下のねねの道におります。この坂道は「台所坂」というそうです。謂れはわかりません。


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東山その③は以上です。











この項 <完>





# by mo-taku3 | 2021-02-27 13:40 | 「京都の観光」道案内 | Comments(0)

京都ぶらり町歩き(東山その②)20210227

京都ぶらり町歩き(東山その②)20210227



京都の街を皆さんにご紹介方々、カメラでつづってみたいと思います。
第一回目の試みとして、東山周辺をご紹介したいと思います。
今回は、河原町通松原から「八坂の塔」を通り、清水二年坂から四条川端通の「南座」までを①~④回でご紹介します。

さてその京都街歩き(東山その②)は。
(東山その①)では、松原通の「六道の辻」辺りまでを紹介しましたが、その松原通の坂道を上がっていくと、と「東大路通(通称、東山通)」に出ます。そこから一筋(北)上ルと「清水道」に出ますのでそこから東を見ると、「八坂の塔」が見えてきます。八坂の塔は聖徳太子建立と伝わる、「法観寺」というお寺の五重塔です。

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*八坂の塔(五重塔)は崇峻天皇5年(592年)に聖徳太子が如意輪観音の夢告により建てたと伝わっています。この聖徳太子開基説は「山城州東山法観禅寺仏舎利塔記」(暦応元年(1338年))で初見される。それによると、創建時の伽藍は法隆寺式伽藍配置或いは四天王寺式伽藍配置だったと考えられており、聖徳太子創建の伝承ははなはだ信憑性に疑いはあるが、平安京遷都以前からある古い寺であったことは確かとされています。朝鮮半島系の渡来氏族である「八坂氏」の氏寺として創建されたという見方が有力となっており、当初は「八坂寺」と称されたようです。その八坂寺が文献上で初見されるのは、「続日本後紀」承和4年(837年)の条で見られるという。



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八坂の塔の辺りから少し勾配のきつい坂道になっていますが、200m位のところに「八坂庚申堂」があります。女性に圧倒的な人気がある「願掛け」のお寺です。
庚申信仰という中国から伝わった道鏡の信仰の一つで、「くくり猿」に願い事を託して祀り、欲を一つ我慢することで願い事が叶うというものです。何時行っても沢山の女性で賑わっているところです。


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八坂庚申堂の直ぐ先には、大阪の落語家が開いた「文の助茶屋」があります。

文の助茶屋」は、明治中期に活躍した人情ばなしの上方の落語家「二代目桂文之助」が明治42年に圓徳院の境内にて、「甘酒茶屋」を始めたのが「文の助茶屋」のはじまりとされ、風流三昧、[粋様参る無粋な店]、として八坂神社から清水寺の東山界隈を散策する旅人や参拝者で賑わってました。


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その先には「針金細工の店」としてTVにもよく取り上げられる、外人の店があります。


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八坂の塔を通る清水坂が、清水「産寧坂(三年坂)」と「二寧坂(二年坂)」の三叉路に当ります。そのまま進むと三年坂から清水寺へ繋がります。また、左へ折れて坂を下るのが二年坂となり、今回はこちらを選択しました。


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この三叉路の傍には、湯豆腐で有名な「奥丹」という店があります。


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二年坂を下ります。


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坂の階段の途中の左手に、「竹下夢二の寓居跡」というのがあります。こんなところにも住んでいたんですね。


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二年坂の終点を左に曲がると、「一念坂」という短い道があります。昔はここから清水に入る道だったんですね。


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*東山(その②))はここまでとします。










この項 <完>





# by mo-taku3 | 2021-02-27 13:20 | 「京都の観光」道案内 | Comments(0)

京都ぶらり町歩き(東山その①)20210227

京都ぶらり町歩き(東山その①)20210227



京都の街を皆さんにご紹介方々、カメラでつづってみたいと思います。
第一回目の試みとして、東山周辺をご紹介したいと思います。
今回は、河原町通松原から「八坂の塔」を通り、清水二年坂から四条川端通の「南座」までを①~④回でご紹介します。

さてその京都街歩き(東山その①)は。
河原町松原といってもピンとこないかもしれませんが、四条河原町の周辺は商業の街と言っていいと思います。その四条河原町から4筋下ルと(京都では南行きは〝下ル”といいます)松原通です。豊臣秀吉は、応仁の乱後の荒れた京都の町を「御土居」で囲まれた城壁都市として、新たに区画整理をやり直しました。それ以前のこの松原通は、五条通と言われていたところで、清水寺への参道として大変賑わっていたようです。

河原町松原の交差点には、このような日の丸のついたユニークな街燈があります。ここからスタートです。

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松原通を東に進むと200mほどで鴨川にぶつかり、そこに松原橋が架かっています。この駒札には、五条大橋の所以が架かれています。
余談になりますが、義経と弁慶のお話は平安末期になりますから、当時の話はこの松原橋での逸話になるわけです。松原通には今でもこれにあやかったものがあるようです。


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松原橋から南(下流)を見ると、五条大橋が見えます。


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松原橋から北を見ると、少し川の右手に比叡山が見えます。


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鴨川に架かる松原橋を渡り進む道は、元々清水寺への参道となるわけで、この道を進んでいくと宮川町花街(横を向くときれいに石畳で整理された花街の道にお茶屋さんが並んでいます。)があり、ここを過ぎていく道は色々なお店が続いています。

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そのまま進むと、「愛宕念仏寺元地」の石標があります。以前から気になっていましたが、愛宕念仏寺は、現在、右京区嵯峨鳥居本 という高雄への途中にありますが、ここから移ったということですね。
京都では神社仏閣の移転が、時の権力者によって当たり前のように行われていました。神社仏閣は殆どが皇族・公家・大名・有力武士などの保護や寄進によるものでした。神社の移転はあまりなかったようですが、僧兵など武力を抱えたお寺は、ついつい大きな敷地を占めることになりますので、移転をさせられたり、縮小させられたりしていました。特に大きな影響を受けたのは、明治新政府による「廃仏棄却・上知令」でした。大名の廃藩置県により仏閣の土地の保護者がいなくなり、国有財産となり、また、私有地化した所には納税の義務が生じ、自ら土地を手放す(国への召し上げ、売却)ところが多くなりました。
愛宕念仏寺はどのような状況だったんでしょうね。


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更に進むと、この辺りは「六道の辻」と呼ばれ、古くより鳥辺野の入口に当たり(鳥辺野の入口とはあの世とこの世の境と云われていた。)、葬送地に送られる亡骸の無常所になっていた。そこに「西福寺」というお寺がある。その西福寺の土仏地蔵尊は弘法大師・空海作と言われ、814年(弘仁5年)空海が第52代・嵯峨天皇と檀林皇后の皇子・正良親王(仁明天皇)の病気平癒を祈願したことから、子育地蔵(子安地蔵・子授地蔵)と言われ崇められています。



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西福寺の向かいに、「幽霊子育飴」という飴を売る店がある。幽霊子育飴の由来は、「慶長4年(1599)にある女性が亡くなり埋葬された、その数日後にその土の中から子供の泣き声が聞こえてきたので掘り返してみると、亡くなった女性が生んだ子供であった。丁度そのころ、毎夜飴を買いに来る女性があったが、子供が墓から助けられたあとは買いに来なくなったという。それ以来、この飴は「幽霊子育飴」と呼ばれるようになったという。その時助けられた子どもは8歳で出家し高僧となった。」と伝えられている。


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六原商店街です。近く一体が六波羅探題(六波羅蜜寺に石標がある)を中心平氏一門・一統が住まいしていた。


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「六道珍皇寺」は「六道さん」の名で親しまれ、お盆の精霊迎えに参詣するお寺として知られています(実際凄い人がお参りします)。平安時代以前に建立され、冥府を行き来したと伝えられる「小野篁(たかむら)」所縁(ゆかり)の寺院で、平安京の東の墓所であった鳥辺野に至る道筋にあたり、この地で「野辺の送り」をされたことより、ここが「人の世の無常とはかなさを感じる場所」であったと言われています。高級役人であり、冥界の番人でもあると言われる小野篁が毎夜の冥府通いのため、本堂裏庭にある井戸をその入口に使っていたとあるという、有名な話です。



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以上4回シリーズのその①です。











この項 <完>





# by mo-taku3 | 2021-02-27 13:00 | 「京都の観光」道案内 | Comments(0)