日蓮宗京都16本山の一つ「本禅寺」というお寺が京都御苑の東、寺町通にありました。お話を聞いて興味が湧きましたので載せてみました。
このお寺は、応永13年(1406)日陣(にちじん)上人が四条堀川に創立した寺で、天文の法乱後、日覚(にっかく)大僧正の時、西陣の方四町の地を得て移り、さらに天正19年(1591)豊臣秀吉の命により現在地に移っています。
五世日覚上人は、勅命によりしばしば宮中に法華経を講じ、後奈良天皇より勅願寺の綸旨(りんじ)を賜っています。また天保10年(1839)には有栖川(ありすがわ)宮家の祈願所にもなっています。今の堂宇は嘉永2年(1849)に建てたもので、立像堂(りゅうぞうどう)には日蓮上人が常に護持したといわれる「立像釈迦如来」が安置されています。
境内には、「大久保彦左衛門」「画家岸駒(がんく)」、「拝匠梅室(ばいしつ)」のお墓があります。
(歴史年表)
1406年、越後・本成寺の日陣が、本国(圀)寺・日伝と法論の末に分立した。弟子・日登とともに四条堀川(中京区)に創建し「本禅寺」と称した。
1536年、比叡山衆徒による洛中洛外の日蓮宗21寺を襲った天文法華の乱により焼却された。
1540年、本成寺・日覚が西陣桜井町(上京区智恵光院通今出川上ル桜井町)に再建し5世になる。第105代・後奈良天皇の綸旨により勅願寺になる。
1548年、日蓮聖人随身仏立像尊像が献納されたという。
室町時代末、京都日蓮宗代表寺院21か本山の一つになる。
1591年/天正年間(1573-1592)、豊臣秀吉の都市改造により、移転命令を受け現在地(上京区)に移った。
1615年、1645年、1661年、1708年、1788年、それぞれ焼失している。
1839年、有栖川宮の祈願所になった。
1852年、本殿、客殿、釈迦堂など現在の堂宇が再建されている。
1862年、12月、上洛した京都守護職・会津藩主の松平容保は当寺で旅装を解く。
1923年、堂宇が再建される。
(堂宇・仏像)
仏像は、
・本堂(立像堂)の「金銅釈迦如来立像」は、かつて本国(圀)寺に安置されていたといいますが、室町時代後期、1536年、天文法華の乱後、当寺に遷されたといいます。
先に述べたように、この仏像は宗祖・日蓮の随身仏といわれています。
・「法華題目釈迦多宝仏」を安置する。
・釈迦堂の「金銅釈迦立像(竜宮城釈迦)」は、かつて東海の海底より出現したといい、日蓮の念持仏といいます。江戸時代には、「名釈迦」の一つに数えられ、幾度の災難に遭っても無事であったことから、災難除けの仏としての信仰を集めたようです。
堂宇は、
・本堂は、耐火性のため漆喰・回廊は石畳になっており、間口9間、総ヒノキ造、土蔵造となっています。幾度の火災に見舞われた過去からの教訓なのかも。
・鐘楼の「梵鐘」は、かつて摂津・法安寺(生玉大明神/ 生国魂大明神)にあったもので、これは、豊臣秀吉の次男・秀頼(1593-1615)が片桐且元に命じ、社殿修造時に、鋳造したといわれているようです。梵鐘には、江戸時代前期、「慶長十一年(1606年)」の鐘銘がある。鐘名に豊臣秀頼(1593-1615)、淀殿(1566/1569-1615)、加藤清正(1562-1611)、勝元(且元)の名が刻まれているといいます。この梵鐘は、徳川家康は大坂の陣で陣鐘(じんしょう)として用いたあと、大久保彦左衛門忠教(1560-1639)が譲り受け、菩提寺の当寺に奉納したといわれています。
(宝物(文化財)
・鎌倉時代の紙本墨書「第92代・伏見天皇1265-1317)宸翰御消息」(重文)。
・紙本墨書「第89代・後深草天皇(1246-1260)宸翰御消息」(重文)。
・「寛性親王御消息翻摺法華経8巻」(重文)。
・岸派一族絵画など。
・「竜吐水」が置かれている。消防のための道具であり、木製の箱に水を入れ、横棒を上下に動かして、手押しポンプの装置で水を噴出させた。江戸時代前期-中期、、享保年間(1716-1736)にオランダから渡来したとも、長崎で発明されたともいう。竜が水を吐くさまに見立てて名づけられ、「雲竜水」とも呼ばれた。ただ、消火の効果はあまりなかったようだ。
(塔頭)
現在、心城院、詮量院、玄妙院、円龍院の四院ある。
(墓)
・江戸幕府旗本・大久保忠教(大久保彦左衛門、1560-1639)の五輪塔と一族、亀山藩主・石川主殿頭一族の墓。
・江戸時代の画家・岸駒(がんく、1749/1756-1839)と一族の墓。
・江戸時代後期の刀研師・俳人・桜井梅室(1769-1852)の墓。