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京都史跡「土御門内裏跡(里内裏)」20241005

京都史跡土御門内裏(里内裏)20241005



土御門内裏は、京都ガーデンパレス前に、下の写真のように石碑が建てられています。ここは、鳥羽(1103~56)・崇徳(1119~64)・近衛(1139~55)、三代の天皇が約24年間にわたって利用した方一町(約100m四方)規模の「里内裏*」の跡です。
これは、平安京大内裏を模して造られた最初の里内裏で、もと源師時(1077~1136)の土御門邸があったところのようです。たびたび火災などに遭遇したようですが、保元元(1156)年の再建が中止されて廃絶に到ったようです。
1117年、第74代・鳥羽天皇(1103-1156)の里内裏として新造され、紫宸殿、清涼殿なども建てられていました。
土御門内裏の造営は、白河上皇(第72代、1073-1087)が強力に進めたといわれています。院政期にあって、内裏以外に天皇の住する御所を造営したのは、鳥羽天皇を外部勢力より守護する政治的な意図も働いたとみられています。
(里内裏(さとだいり))
「里内裏*」里内裏(さとだいり)とは、平安時代以降、平安宮内裏以外の邸宅を天皇の在所(皇居)として用いたものを指し、「里」とは平安京の里坊(「里」「坊」はいずれも方形に区切られた街区)のことであり、すなわち里内裏とは「平安京内に置かれた内裏」という意味になります。
いい例が、現在の京都御所です。ここは、もともと里内裏の土御門東洞院殿でした。正親町南・東洞院東・土御門北・高倉西の1町4方に所在し、元は権大納言藤原邦綱の邸宅でした。その後六条天皇と高倉天皇の里内裏を経て後白河上皇の所有となり、その後、長講堂と共に宣陽門院の所有となり、承久の乱後紆余曲折を経て後深草天皇に譲られ、以後は持明院統の「治天の君の御所」となりました。
元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が都を脱出して笠置山に立て籠ると、幕府が擁立した光厳天皇は土御門東洞院殿を改めて里内裏とし、以後明治2年(1869年)の東京奠都まで27代の天皇の御所となりました。
10世紀後半以降、平安宮内裏はしばしば火事で焼失したため、平安内裏焼失後、天皇の在所を一時的に他所へ移す必要が生じ、当初は後院が仮皇居として用いられた。(後院とは、天皇退位後の在所とすることを主な目的として設けられた離宮のこと)しかし、後院が太上天皇の在所として既に用いられている場合などには、天皇外戚の邸宅などが仮皇居として用いられることがあり、これを里内裏と称したようです。焼失した平安宮内裏はその都度再建されましたが、次第に再建に歳月を要するようになり、藤原摂関期(清和天皇から)にはまだ平安宮内裏が本来の皇居であると認識されており、平安宮内裏が健在であるのに里内裏を皇居とする例は無かったが、白河上皇から始まる院政期以降になると、平安宮内裏の有無に関わらず里内裏を皇居とする例が一般化したようです。

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この項 <完>





# by mo-taku3 | 2024-10-08 11:00 | (歴史感)京都 | Comments(0)

護浄院「京都の清荒神」20241006

護浄院「京都の清荒神20241006



京都に住んで30年以上になりますが、このお寺は初めて出会ったお寺です。
清荒神というと、兵庫県にもありますが、ここにお参りすると、必ず御礼参りをしなければならない、という言い伝えが耳に残っているせいか、今回も怖い神様のように思い少し尻込みした次第です。しかし折角なので、お参りしてきました。
護浄院(ごじょういん)清荒神(きよし-こうじん))
本尊は火の神、竈神として祀られる三宝荒神尊で、「火の用心」「災難除け」にご利益があるとして人々の信仰を集めています。荒神尊は激しく祟りやすい性格を持つ一方、火伏の霊験があるとされ、如来荒神・麁乱荒神・忿怒荒神の三身を併せ持つ。
「開基は宝亀2年(772)で、光仁天皇の皇子である開成皇子が仏門にはいられ、勝尾山(今の大阪府箕面市)で修行中三宝荒神尊を感得され自らその姿を模刻し、日本で最初の荒神尊としてお祀りされた。慶長5年(1600)後陽成天皇により皇居守護のため現在地に移され、以後歴代天皇の篤い尊祟を受け、のち東山天皇が御所の浄域を護ることから「護浄院」と命名され、現在も勅願所として国家の安寧・皇室安泰の祈願をし、皇室に御札を献上している。」
とあります。
(火の守り神、三宝大荒神)
天台宗の寺で通称、清荒神といいます。本尊の清三宝大荒神は、約1200年前のものといわれ、後小松天皇の勅により、僧乗厳が摂津の国から醒ヶ井高辻の地に勧請しました。その後1600年に、現在の地に移され、後陽成天皇御自作の如来荒神尊七体を祀って、長日後祈願を行い元禄10年、護浄院の院号を賜り今日に至っています。又、一般の家庭では釜戸の上に祀られ火の守護神とされています。
当初は、摂津国・清澄寺(宝塚市)にあり、その後、室町時代の北朝第6代・歴代第100代・後小松天皇の勅により、醒ヶ井高辻(醒ヶ井通仏光寺下ル荒神町)に遷されたといいます。1600年に第107代・後陽成天皇が王城守護のために現在地に遷し、歴代天皇の国家安泰、五穀豊穣の信仰を集め、三宝(仏、法、僧)の守護神とされています。
この付近の地名になっている荒神の名の由来は、清荒神に由来するといいます。
第119代・光格天皇(1771-1840)の胞衣塚があります。
また、平安時代の文章博士・三善清行の子で、修験道の浄蔵(891-964)が護摩を焚いたという「採燈護摩壇旧跡」が境内にあります。

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この項 <完>





# by mo-taku3 | 2024-10-09 11:30 | (仏閣)京都のお寺 | Comments(0)

青蓮院門跡と親鸞「植髪堂」など20241002

青蓮院門跡と親鸞「植髪堂」など20241002



「青蓮院門跡」に寄ってみました。丁度閉門時間も過ぎたところでしたので、入山せずに周りを見渡して、2つの今まで取り上げてこなかったことをここで挙げてみたいと思います。
一つは親鸞の「植髪堂」について。もう一つは「粟田陶青木木米記念碑」についてです。(後述)
天台宗「青蓮院門跡」では、親鸞の「植髪堂」の階下に永代供養の納骨壇を設けております。植髪堂は、浄土真宗の祖親鸞上人が、時の門主慈鎮和尚のもと、青蓮院で得度された折の剃髪を童形像にお植えしておまつりしている由緒あるお堂です。
さて、今回は青蓮院門跡ではなく、その北にある「植髪堂(うえがみ-どう)について説明したいと思います。
親鸞の「植髪堂(うえがみ-どう)」)
植髪堂は、青蓮院の境外仏堂になります。鎌倉時代の浄土真宗の宗祖・親鸞にまつわるお堂です。かつては、阿弥陀堂と呼ばれていたものです。
このお堂の本尊は、阿弥陀如来像ですが、親鸞童形像なども安置されています。 
創建、変遷の詳細は不明ですが、平安時代、1181年、親鸞は青蓮院第3世門主・慈鎮の許で得度したといいます。親鸞の母・吉光女(きっこうにょ)は、張子で親鸞の童形像を作ったといい、これに親鸞の得度の際に剃り落された髪を、像の頭上に植え付け、常に自らの傍に置いていたといいます。その後長らく、像は青蓮院に蔵されました。
その後、その像の存在を伝え聞いた人々は、礼拝を請い木像が新たに造られました。この木像に法衣を着せ、青蓮院末寺・金蔵寺(こんぞうじ)の御供屋に安置されていたといいます。
江戸時代、享保年間(1716-1736)、天王辻子の本間紹信は、植髪像が親鸞像であるとして、以後、植髪像を堂に安置するようになったといいます。(『梅室随筆』)
1759年、信者の一人が御供屋の東に御堂を建て、阿弥陀三尊を安置しました。その傍らに像も安置され、堂は阿弥陀堂、植髪堂と称されたといいます。
1767年、御堂は華頂山北丘背後(知恩院背後の山? )に移された。寺号「華頂山阿弥陀寺」は江戸幕府に許されなかった。
1794年、定法寺町に移り、当初は真宗西本願寺に属したようです。
1838年以降、法会は、西本願寺、東本願寺が交替で勤めていたといいます。
1880年、阿弥陀堂は青蓮寺境内の現在地に移転しました。
(親鸞聖人遺髪塔)
境内には、1940年に遺髪塔が建てられています。親鸞の髪の一部を納められているといいます。
遺髪塔の脇に鹿の石像が置かれている。塔が建立された際に一頭の鹿が山から下りてきて、塔の前から離れようとしなかったという逸話から建てられたといいます。
金蔵寺は、以前は青蓮院の西にあって青蓮院に属していました。平安時代末期、永久年間(1113-1118)に天台座主・東陽坊忠尋により開かれたといいますが、1868年に廃寺になりました。境内にあった三猿堂(庚申堂)は尊勝院(粟田口から将軍塚への途中)に移されたようです。

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※青蓮院門跡の門の手前に、「粟田陶青木木米記念碑」と彫られた「大きな碑石」がありました。
調べてみますと、大変有名な方で、作品が国宝にもなっている人でした。
青木 木米(あおき もくべい))
青木 木米(あおき もくべい、明和4年〈1767年〉 - 天保4年5月15日〈1833年7月2日〉)は、江戸時代の絵師、京焼の陶工とあり、活躍した人です。永樂保全、仁阿弥道八とともに、京焼の幕末三名人とされています。
(生涯)
木米(もくべい)は、明和4年(1767年)、京都に生まれ、若くして高芙蓉に書を学び、頭角を現わしたそうです。29歳の時、木村蒹葭堂の書庫で清の朱笠亭が著した『陶説』を読んで感銘を受けて作陶を志し、奥田頴川に入門しています。30歳を境に京都・粟田口に釜を開き粟田工として評判を得るに至ってます。5年後には加賀藩前田家の招聘を受け、絶えていた加賀九谷焼の再生に尽力したそうです。
1805年6月、39歳のときに、粟田御所(青蓮院宮)の御用窯を命ぜられます。陶工としては煎茶器を主に制作。白磁、青磁、赤絵、染付、交趾などその作域は幅広い。
中国古陶磁への傾倒から、中国物の写しに独自の世界を開いています。文人画(南画)系統に属する絵画にも秀作が多くあります。天保4年(1833年)死去享年67。

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※兎道朝暾図(うじちょうとんず)(東京国立博物館蔵、重要文化財)

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この項 <完>





# by mo-taku3 | 2024-10-09 11:00 | (仏閣)京都のお寺 | Comments(0)

日蓮宗京都16本山の一つ「本禅寺訪問」20241006

日蓮宗京都16本山の一つ「本禅寺20241006



日蓮宗京都16本山の一つ「本禅寺」というお寺が京都御苑の東、寺町通にありました。お話を聞いて興味が湧きましたので載せてみました。
このお寺は、応永13年(1406)日陣(にちじん)上人が四条堀川に創立した寺で、天文の法乱後、日覚(にっかく)大僧正の時、西陣の方四町の地を得て移り、さらに天正19年(1591)豊臣秀吉の命により現在地に移っています。
五世日覚上人は、勅命によりしばしば宮中に法華経を講じ、後奈良天皇より勅願寺の綸旨(りんじ)を賜っています。また天保10年(1839)には有栖川(ありすがわ)宮家の祈願所にもなっています。今の堂宇は嘉永2年(1849)に建てたもので、立像堂(りゅうぞうどう)には日蓮上人が常に護持したといわれる「立像釈迦如来」が安置されています。
境内には、「大久保彦左衛門」「画家岸駒(がんく)」、「拝匠梅室(ばいしつ)」のお墓があります。
(歴史年表)
1406年、越後・本成寺の日陣が、本国(圀)寺・日伝と法論の末に分立した。弟子・日登とともに四条堀川(中京区)に創建し「本禅寺」と称した。
1536年、比叡山衆徒による洛中洛外の日蓮宗21寺を襲った天文法華の乱により焼却された。
1540年、本成寺・日覚が西陣桜井町(上京区智恵光院通今出川上ル桜井町)に再建し5世になる。第105代・後奈良天皇の綸旨により勅願寺になる。
1548年、日蓮聖人随身仏立像尊像が献納されたという。
 室町時代末、京都日蓮宗代表寺院21か本山の一つになる。
1591年/天正年間(1573-1592)、豊臣秀吉の都市改造により、移転命令を受け現在地(上京区)に移った。
1615年、1645年、1661年、1708年、1788年、それぞれ焼失している。
1839年、有栖川宮の祈願所になった。
1852年、本殿、客殿、釈迦堂など現在の堂宇が再建されている。
1862年、12月、上洛した京都守護職・会津藩主の松平容保は当寺で旅装を解く。
1923年、堂宇が再建される。
(堂宇・仏像)
仏像は、
・本堂(立像堂)の「金銅釈迦如来立像」は、かつて本国(圀)寺に安置されていたといいますが、室町時代後期、1536年、天文法華の乱後、当寺に遷されたといいます。
先に述べたように、この仏像は宗祖・日蓮の随身仏といわれています。
・「法華題目釈迦多宝仏」を安置する。
・釈迦堂の「金銅釈迦立像(竜宮城釈迦)」は、かつて東海の海底より出現したといい、日蓮の念持仏といいます。江戸時代には、「名釈迦」の一つに数えられ、幾度の災難に遭っても無事であったことから、災難除けの仏としての信仰を集めたようです。
堂宇は、
・本堂は、耐火性のため漆喰・回廊は石畳になっており、間口9間、総ヒノキ造、土蔵造となっています。幾度の火災に見舞われた過去からの教訓なのかも。
・鐘楼の「梵鐘」は、かつて摂津・法安寺(生玉大明神/ 生国魂大明神)にあったもので、これは、豊臣秀吉の次男・秀頼(1593-1615)が片桐且元に命じ、社殿修造時に、鋳造したといわれているようです。梵鐘には、江戸時代前期、「慶長十一年(1606年)」の鐘銘がある。鐘名に豊臣秀頼(1593-1615)、淀殿(1566/1569-1615)、加藤清正(1562-1611)、勝元(且元)の名が刻まれているといいます。この梵鐘は、徳川家康は大坂の陣で陣鐘(じんしょう)として用いたあと、大久保彦左衛門忠教(1560-1639)が譲り受け、菩提寺の当寺に奉納したといわれています。
(宝物(文化財)
・鎌倉時代の紙本墨書「第92代・伏見天皇1265-1317)宸翰御消息」(重文)。
・紙本墨書「第89代・後深草天皇(1246-1260)宸翰御消息」(重文)。
・「寛性親王御消息翻摺法華経8巻」(重文)。
・岸派一族絵画など。
・「竜吐水」が置かれている。消防のための道具であり、木製の箱に水を入れ、横棒を上下に動かして、手押しポンプの装置で水を噴出させた。江戸時代前期-中期、、享保年間(1716-1736)にオランダから渡来したとも、長崎で発明されたともいう。竜が水を吐くさまに見立てて名づけられ、「雲竜水」とも呼ばれた。ただ、消火の効果はあまりなかったようだ。
(塔頭)
現在、心城院、詮量院、玄妙院、円龍院の四院ある。
(墓)
・江戸幕府旗本・大久保忠教(大久保彦左衛門、1560-1639)の五輪塔と一族、亀山藩主・石川主殿頭一族の墓。
・江戸時代の画家・岸駒(がんく、1749/1756-1839)と一族の墓。
・江戸時代後期の刀研師・俳人・桜井梅室(1769-1852)の墓。

調べていくうちにここにも新たな発見があり、ちょっとした歴史ロマンに触れることができました。

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この項 <完>





# by mo-taku3 | 2024-10-09 10:30 | (仏閣)京都のお寺 | Comments(0)

八坂神社「今日の様子」20241008

八坂神社「今日の様子」20241008



少し時間が遅くなりましたが、氏神様の八坂神社を参拝してきました。
小雨が降っていましたが、意外と人出は多く、賑わっていました。
参拝を済ませ西門から西(四条通)を眺めてみると、車や通りに灯が付き始め、なかなか風情がありました。

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この項 <完>





# by mo-taku3 | 2024-10-08 17:30 | (神社)京都の神社 | Comments(0)

東山「ねねの道」20241008

東山「ねねの道」20241008



いつの頃からかわかりませんが、石碑を見るとかなり年季が入っているので、かなり命名は古く感じます。なかなかいい名前です。この路は、霊山道から円山公園までを指しますが、その間には、石塀小路⇒圓徳院(高台寺塔頭)⇒台所坂・高台寺⇒御陵衛士の月眞院(高台寺塔頭)⇒三面大黒天⇒大雲院の祇園閣⇒東本願寺祖廟、等々まだまだ色々ありますが、とにかく大変な径です。大方診て歩くと半日では済まない位です。
今回はその一部を載せてみました。

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この項 <完>





# by mo-taku3 | 2024-10-08 17:10 | (風景・風俗・散策・見学)ぶらり京都 | Comments(0)