「西陣織会館」を見学してきました!ゆったりとした空間の1F.3Fに展示品!20260313
(平安時代には官営の織物工房) :資料より。
西陣織の源流は、遠く古墳時代にまで求められます。
5、6世紀頃、大陸からの渡来人である秦氏(はたうじ)の一族が山城の国、つまり今の京都・太秦あたりに住みついて、養蚕と絹織物の技術を伝えたました。
飛鳥時代や奈良時代を経て、やがて平安京への遷都が行われると、朝廷では絹織物技術を受け継ぐ工人(たくみ)たちを織部司(おりべのつかさ)という役所のもとに組織して、綾・錦などの高級織物を生産させました。いわば国営の織物業が営まれていたわけです。織物の工人たちは現在の京都市上京区上長者町あたりに集まって、織部町といわれる町をかたちづくっていたといいます。
(「大宮の絹」「大舎人の綾」と珍重)
平安時代も中期以降になると、こうした官営の織物工房は徐々に衰えました。律令政治のタガがゆるみ始め、工人たちが自分たちの仕事として織物業を営むようになりました。彼らはやはり織部町の近くの大舎人(おおとねり)町に集まり住み、鎌倉時代には「大舎人の綾」とか「大宮の絹」などと呼ばれ珍重された織物を生産していました。また、大陸から伝えられる新しい技術も取り入れ、つねにすぐれた織物づくりに取り組みました。 室町時代には、大舎人座(おおとねりざ)という同業組合のようなものを組織し、朝廷の内蔵寮(うちのくらのつかさ)からの需要に応えながら、一般の公家や武家などの注文にも応じていました。
(応仁の乱の西軍の本陣となったのが名前の由来)
ところが、室町時代の中頃、京都の街を舞台に東軍と西軍が争う応仁の乱が起こります。乱は11年間も続いたため、多くの職工たちが戦火を逃れて和泉の堺などに移り住み、大舎人町の織物業は壊滅状態となりました。しかし、戦乱が治まると彼らは再び京都に戻り、もとの場所にほど近い白雲村(現在の上京区新町今出川上ル付近)や、戦乱時に西軍の本陣であった大宮今出川付近で織物業を再開しました。西陣織という名前は、西軍の本陣跡、つまり西陣という地名がその由来です。
大宮あたりの織物業者たちは大舎人座を復活させ、室町時代の末ごろには、この大舎人座が伝統ある京都の絹織物業を代表するものと認められるようになりました。
このような、軌跡の結果の集大成の製品の一部が、2Fで展示販売しています。私は、今回見学して西陣織を具体的に初めて知ったわけですが、地元でも知らない人は沢山いると思います。もっとイベントを企画して、着物だけではなく多用途の西陣織を知らしめていただけると、京都の活性化の一因ともなりうると期待しています。
少なくても東京などの地方からの私のお客様は、是非ここにお連れしたいと思いました。
この項 <完>
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