誠心院「和泉式部初代住職の寺」20230927
「誠心院」の初代住職は平安の歌人『和泉式部』です。藤原道長に建てていただいたお寺です。
京都の平安京の東端「寺町通(京極)」の隣にある、「新京極通」に面してます。
華獄山東北寺誠心院と号する真言宗泉涌寺派のお寺で、以前は「誠心院(じょうしんいん)」の呼び名で親しまれていましたが、戦後、先代住職の頃から「誠心院(せいしんいん)」と呼ばれるようになりました。
関白藤原道長が、娘の上東門院彰子(藤原彰子)に仕えていた和泉式部のために法成寺の中、東北寺に建立したお堂(小御堂)が「誠心院」の起りとされています。
初代住職の和泉式部は、才色兼備としても有名な平安中期の代表的な歌人であり、勅撰集に収められている和歌は、実に274首にも及んでいます。
本堂内には、道長公が建立した本尊阿弥陀如来像をはじめ、和泉式部、藤原道長のそれぞれの像を安置しており、境内には式部の墓と伝える宝篋印塔(ほうきょういんとう)および式部の歌碑が建てられています。
初代住職の和泉式部にちなみ、知恵授け・恋授けにご利益があるといわれています。
というのは、和泉式部には数々の恋愛遍歴があり、しかも、情熱的な恋歌でも伺えるからといいます。
生没年は不詳のようですが、藤原道長や紫式部と同じような時期を考えて、天延2年(974年)~天元元年(978年)の間ではないかといわれています。
・和泉式部の恋多き人生。
越前守・大江雅致(おおえまさむね)の娘。和泉守の橘道貞(たちばなのみちさだ)の妻となり、父の官名と夫の任国とを合わせて「和泉式部」と呼ばれたいいます。この道貞との間に娘小式部内侍を儲け、夫とは後に別れますが、娘は母譲りの歌才を示していたといいます。
まだ道貞の妻だった頃、冷泉天皇の第三皇子である為尊親王(ためたかしんのう)との熱愛が世に喧伝されていたといいます。為尊親王の死後の翌年、その同母弟である「帥宮(そちのみや)」と呼ばれた敦道親王(あつみちしんのう)の求愛を受けるが、この求愛は熱烈を極め、親王は式部を邸に迎えようとして、正妃が家出するに至ったといいます。
敦道親王との間に一子永覚を儲けますが、兄と同じく、敦道親王も寛弘4年(1007年)に早世しています。服喪を終えた和泉式部は、寛弘末年(1008-1011年)頃から一条天皇の中宮藤原彰子に女房として出仕を始めます。この頃、同じく彰子の周辺にいた紫式部らとともに、宮廷サロンを築くことになります。40歳を過ぎた頃、彰子の父藤原道長の家司「藤原保昌*」と再婚し、丹後守となった夫とともにその任国に下り、その後の和泉式部晩年の詳細は知られていないといいます。ただ、万寿2年(1025年)和泉式部に先立ち、娘の小式部内侍が死去し、その際、誓願寺にこもったとは伝わっています。
(*「藤原保昌」ちょっと横道にそれますが、私が住んでいる町内に、祇園祭の「保昌山(ほうしょうやま)」というのがあり、この藤原保昌が祭神となっています。有名だったんでしょうね。)
歌人式部の真情に溢れる作風は、恋歌・哀傷歌・釈教歌にもっともよく表され、殊に恋歌に情熱的な秀歌が多いのは数々の恋愛遍歴によるものであろうといわれています。その才能は、同時代の大歌人藤原公任にも賞賛され、正に男女を問わず一、二を争う王朝歌人であったといえます。
伝わっている歌集は、『和泉式部正集』『和泉式部続集』や、秀歌を選りすぐった『宸翰本和泉式部集』などがあります。また『拾遺集』以下、勅撰集に246首の和歌を採られ、死後初の勅撰集『後拾遺集』では最多入集歌人の名誉を得ています。
更に、敦道親王との恋の顛末を記した、物語風の日記『和泉式部日記』(寛弘4年(1007年)頃成立)は、わが国の女流文学を代表する一つとしてよく知られています。本作品の特長は、恋愛に関する式部のありのままの心情描写が、取り交わされた多くの和歌を交えて表されています。
・和泉式部誠心院専意法尼の墓所(宝篋印塔ほうきょういんとう)
『わらわがすみかも他所ならず。
あの石塔こそすみかにてさむらへ。
不思議やなあの石塔は和泉式部の御墓と
こそ聞きつるに
そもすみかとは不審なり。』
(謡曲 誓願寺より)
この石塔は、和泉式部の往生の、六字名号を念仏する人があれば二十五菩薩と共にお迎えに来てくださるという謡曲「誓願寺」の舞台にもなっている宝篋印塔で、正和2年(1313年)に改修建立されました。(高さ約4メートル、幅約2.4メートルあります。)
この項 <完>