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京都の三大祭「時代祭」が華やかに行われました。

京都の三大祭「時代祭」



京都の三大祭「時代祭」が華やかに行われました。
時代祭は毎年10月22日と決まっておりますが、22日は大雨予報ということで、23日に順延になりました。
順延は10年振りだそうです。

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私は京都に住んで15年になりますが、時代祭は初めての見学となります。
というのは、京都の方々もそうだと思いますが、歴史行列の割には歴史の深さを感じさせない見せているだけのお祭の感じがし、何か中途半端な感じを抱いているからです。
それを払拭する意味でも今回は、良い場所に陣取り、しっかり見てこようと巡幸スタート(12:00)の2時間前から、御所内を歩き回り、係りの方・警備の方等に絶好の場所はどこかをお聞きし、建礼門前の招待席の直ぐ横を確保することができました。(11:00頃)

この建礼門の前は巡幸スタート前のセレモニーが行われる所で、全ての巡幸列のスタートの起点になっており、最高のポジションは間違いありませんでした。
☆建礼門とは、御所の中心にある内裏(元々は天皇の住まう所)の表玄関にあたる南門を指す。

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建礼門前には、2基の神輿のようなものが置かれ、祭壇のようになっています。
写真を見ていただくとよく分かると思いますが、最初、見たときはこれがどうなるのかが分かりませんでしたが、後でわかったのは、この神輿が時代祭の主役(後述)だったということです。

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さて、いよいよ巡幸が始まりました。
先頭は意外も意外、2人の女性騎馬警官でした。颯爽とした乗り手で、周りには徒歩の強者(警官)が付き添っていました(しかし巡幸行列には含まれません)。
これも後で気づいたのですが、この騎馬警官以外は馬の轡をとる従者が必ず居ましたが、こ騎馬警官は従者なしという状態で、兎に角かっこよく見えました。

明治維新に明治天皇のお声係で始められた祭りには、当時の英雄である「維新勤皇隊」がピーヒャラドンドンドン!の囃子とともに進み、神霊が宿った御神体(神輿;御鳳輦という。先の御鳳輦が西本殿の孝明天皇、後の御鳳輦が東本殿の桓武天皇それぞれを御神体となっている。)に向かって拝礼し、これで神前セレモニーは一区切り。

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続いて京都観光協会の女性たちが着飾り、京都のアピールを横断幕を持って進んでいきました。
これが神幸の先頭になっています。

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その後、京都市長たちが満面の笑みを浮かべた馬車が続いていきました。

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ここからが、「時代祭」の本体が進んでいきます。
先程の、「維新勤皇隊」を含めた明治維新が先頭で進みます。

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「維新勤皇隊」に続き、勤皇の志士の行列が続きます。
長州への七卿落ち(蓑笠の一群)の公家が三条実朝を先頭に進み、その前方を、桂小五郎(木戸孝允)・西郷吉之助(隆盛)・坂本龍馬・中岡慎太郎・高杉晋作・吉田松陰などで囲んで進みます。
七卿の護衛は久坂玄瑞がしております。

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次は江戸時代。
徳川城使上洛列となっています。
徳川幕府は恒例として、年始や大礼などには必ず城使(親藩又は譜代の諸侯)を上洛させ、皇室への礼を尽していた。
先頭を行く槍持ち・傘持ち・鋏箱の“ヒーサー”という掛け声は往時を偲ばせています。

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皇女和宮の輿や吉野太夫などがやってきました。
全体的に女性がきらびやかですね。
女流歌人の(太田垣)連月、当時の衣装比べの逸話に出てくる中村内蔵助(貨幣鋳造の富豪)の妻、池大雅の妻(玉蘭)などが出ています。

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また、出雲の阿国が続きます。

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安土桃山時代に入ります。
豊公参朝列は、豊臣秀頼の初参内や元服時の華やかな参内風景を再現したもののようです。

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どうゆう訳か「牛車」が出現しました。牛車の周りには7・8人の人がいてしっかりサポートしていました。また、予備の牛も一頭連れていました。

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信長の前後を四天王(羽柴秀吉、丹羽長秀、柴田勝家、など)が固めて行進しています。

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織田信長の行列はかなり力を入れた充実したもののように見えました。

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次に、室町時代になります。

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足利将軍は馬上で烏帽子姿で豪華な衣装で進んでいきました。

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応仁の乱が始まる前までは細川勝元と山名宗全の両巨頭が幕府を支えていたいました。
しかし、2人は領国の広さや寄騎勢力が拮抗していたらしく、将軍継嗣問題がきっかけとなり、更にそれ以外の継嗣問題を理由付けて、国内を真っ二つにした骨肉相食む戦いが“応仁の乱”として勃発したわけです。
その結果、各地に守護大名に代わる戦国大名が、下克上の形で出現している。
当時の戦では、権益を確保するために、優位な方に付くのは当たり前で、常に離合集散が日常茶飯事だったようです。
この時代は一族郎党の安泰のための行動はするのが当たり前でした。
信義を重んじるようになったのは、やっと江戸時代に儒教を取り入れてからになります。

☆(余談ですが)歴史の見方は、江戸時代を境に全く変えてみなければ、何故歴史はそうなったのかの判断を間違えることになります。
例えば、鎌倉時代に儒教教育がなされていれば、その後の室町・安土桃山時代は大きく変わっていたことでしょう。

さてその“応仁の乱”の張本人の2人の行進です。

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室町時代の風俗。
室町時代は、足利幕府がしっかりしていない分、町衆がしっかりしていたようです。

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吉野時代(建武の中興)とは、楠木正成公活躍の南北朝時代です。

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楠公御一行。

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中世の婦人列です。
淀君、静御前、大原女(おはらめ)・桂女(かつらめ)が続きます。
大原女は京都大原の女性で、薪や炭などを頭に載せて京の町に行商に出ていた。
また、桂女は京都桂に住むアユ売りの商人。巫女の一種で、慶事の祝いにも訪れたという。

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鎌倉時代は「城南流鏑馬列」です。
後鳥羽上皇が朝廷の権威回復のため、城南宮で近畿十余国の武士を集めてこの流鏑馬を行ったそうです。

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藤原時代(平安時代)です。
藤原氏がもっとも栄えたのは、平安中期以降ですがその頃の文武両方を表したもの。

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巴御前(木曽義仲の妻)の男勝りの活躍は有名です。

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常盤御前と紫式部/清少納言が進みます。

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小野小町。
平安時代の歌人の1人で当時六歌仙・三十六歌仙の1人に数えられるほど、歌に関して秀でた人物で、特に百人一首などで歌われた有名な歌に「花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに」などがあります。又、容姿端麗で宮中一と云われ、今ではエジプトのクレオパトラや中国の楊貴妃と共に世界三大美人と呼ばれています。

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百済王明信。
桓武天皇の世になり平安時代に入ると、百済王家から急に多数の女性が宮中に召されるようになり、そのうちの幾人かは皇子・皇女を儲け、三位以上にも叙せられています。このように百済王家に繁栄をもたらした女性。明信は桓武後宮の頂点にあり、絶大な権力を握っていたという。
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延暦時代
延暦武官行進列。
この列の中心は、坂上田村麻呂で、平安初期日本初の征夷大将軍となり、蝦夷征伐に活躍した。また、清水寺を建立したのでも有名。

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延暦文官参朝列。
この時代に公卿が朝廷に参上する姿。

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「神幸列」というのが最後の列になりますが、これが時代祭の主役となっています。
この列についての解説には、
「御賢木(おんさかき)を先頭に、御鳳輦(ごほうれん)を中心とした神幸の行列であります。 先の御鳳輦が西本殿の孝明天皇、後の御鳳輦が東本殿の桓武天皇で、宮司以下神職が前後につき従って御神幸されます。即ち、御祭神がこの京都を御巡幸になって市民の安らかな状況を親しく御覧になられるのであります。 
各行列は、この御神幸のお供をして行進するわけで、全行列中主たる意義を持つ列であります。」
というのがありました。

※神幸とは
1 祭事や遷宮などのとき、神体がその鎮座する神社から他所へ赴くこと。
2 神が臨行すること。
と辞書に出ています。
また、神幸祭(しんこうさい)とは、「神霊の行幸が行われる神社の祭礼。神幸式(しんこうしき)とも。多くの場合、神霊が宿った神体や依り代などを神輿に移し、氏子地域内への行幸、御旅所や元宮への渡御などが行われる。神輿や鳳輦の登場する祭礼のほとんどは、神幸祭の一種であるといえる。神幸祭は「神の行幸」の意味で、広義には行幸の全体を、狭義には神社から御旅所などの目的地までの往路の過程を指す。後者の場合は目的地からの神社への復路の過程に還幸祭(かんこうさい)という言葉が用いられる。神幸祭・還幸祭と同じ意味の言葉に渡御祭(とぎょさい)・還御祭(かんぎょさい)という言葉があり、渡御祭も広義には行幸(渡御)の全体を指す。」
と解説があった。


いよいよ神幸列のスタートです。

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先の御鳳輦が西本殿の孝明天皇、後の御鳳輦が東本殿の桓武天皇となります。

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総長、奉行の馬車が続きます。

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最後にまたまた大原女・桂女が続きます。

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弓箭組列(最後列)
京都・丹波には昔から弓矢が盛んで、桓武天皇が平安遷都を行ったとき、その列を警護している。また明治維新では山国隊とともに戦ったとのこと。

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以上が時代祭の巡幸でした。


巡幸は「ここ(建礼門前)を出発し御所を出て丸太町通を右に。烏丸通を下って(南へ)御池通を左へ河原町通まで進み、更に河原町通を三条まで下り、三条通を左に平安神宮の大鳥居まで進み、大鳥居をくぐって平安神宮に至る」行程を進みます。
巡幸がすべて終わるまで、2時間半かかります。

全ての巡幸列が終わり、ベストポジションの建礼門前を離れ、列を追ったが結構進んでいて途中であきらめました。

ここで、時代祭の感想を一言。

☆祇園祭などもそうですが、何が主役か時代錯誤が入り混じっているように感じたのは私だけではないような気がします。更に奇異な感じを受けたのは、時代にマッチしない江戸時代の武士の服装で殆どの行列に一団となって行進していました。
これは京都の毎年特定の学区が行列を担当していますが、その世話人が一団となって行進しているようです。
時代祭をもっと盛り上げることに腐心する必要があるのではないかと思う。
今年は観客が減っています。日曜日で晴天ということで、普通であれば京都市民は勿論、近辺の人たちが大勢押し寄せてもいいはずですが、減っています。
どうゆうことでしょうか。

何とかもっともっと盛り上がるお祭りにしたと思います。
明治天皇がせっかく京に元気をと始めたお祭りですので・・・。

この項 <完>

by mo-taku3 | 2011-10-24 17:24 | (祭特集)京都のお祭り | Comments(3)

Commented by escribeme_yakko at 2011-11-03 01:18
巴御前(木曽義仲の妻)の衣装を着てみたい(笑)
なんて思いながら楽しく拝見しました
でも観客が減ってるのですか。。。寂しいですねっ

根津神社にも神幸祭が行われ
最後の写真の白い衣装と同じようなものを着て行列に参加しましたっけ
(当地では女性の参加もOKでしたが本来は男性のみなのではないかと思いながらも)
Commented by mo-taku3 at 2011-11-04 13:19
巴御前は義経との戦い(倶利伽羅峠の戦い)に敗れたのでした。源氏同士だったのにね。
義経は奇策を持ちいて(沢山の牛の角に松明を縛り付け、峠を逆落とし)勝ったそうです。
Commented by toshi at 2012-01-18 07:26 x
京都のお祭りは大混雑のイメージがあって 見たことがありません
建礼門前は 絶好の撮影ポイントですね 事前にしっかり聞き込みをするところが拓さんらしいです
写真を見ただけで 時代祭を堪能出来ました