京都舎密局(シャミキョク)は日本の近代技術に貢献

京都舎密局(シャミキョク)とワグネル博士


鴨川沿いを南に旧フジタホテルの手前まで来たところ、舎密局(せいみきょく)という説明版を見つけた。
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ここは、その昔は、角倉氏の邸宅があったところだそうです。
明治維新のときに、京都の産業を振興する目的で、京都府が設立した理化学工業研究所とのこでした。

まず、明治維新、近代化が始まろうとしていた頃、明治2年(1869年)には、大阪に、日本で最初に化学を学べるところとして大阪舎密局が開設され、そこで、オランダ人教師から、京都の医師・実業家の明石博高(あかしひろあきら)が学んだことから、丁度、東京遷都による沈滞ムードを打破しようということから、翌年、1870年に、この明石博高の勧めで、第2代京都府知事になった槇村正直が、京都にも舎密局を設立したそうです。
京都舎密局には、ドイツ人のワグネル博士が招かれて、伝統産業の七宝焼など陶磁器や織物、染色・顔料の改良実験や製造が行われたそうです。
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そのワグネルを顕彰する碑が平安神宮近くの公園にあります。
平安神宮の巨大な鳥居を抜けて二条通の交差点南西角の交番裏の小さな公園にそれはあります。京都市が設置した
高さ4m、幅10mと云う巨大な顕彰碑です。その大きさからも、いかに京都への貢献度が大きかったかを物語っています。

何故、舎密局(シャミキョク)なのかというと、
江戸後期から明治初期にかけては化学の呼称は舎密と書いて、シャミと呼ばれていた。舎密と云う言葉はオランダ語の科学「chemie」(シャミー)の発音を漢字で表記そうだ。
京都舎密局では、理化学研究、石鹸製造、そして氷砂糖、飲料水の製造などを行っていたそうだ。

日本で最初に作られたもの、「里没那垤」、「依剥加良私酒」、「公膳本酒」、変換間違いした文字の羅列のようですが、何だか判りますか?

・「里没那垤」は”レモナーデ”、そうレモネードです。
・「依剥加良私酒」は”イホカラス”酒、これは今のビールです。
・「公膳本酒」は”コウゼンポン”酒、なんとラムネのことです。

ラムネに酒と云う字があてがわれるところにも、当時のその物珍しさの思いが伝わるようです。
ワグネルはこのほか、有田、伊万里焼きでの発色技術の伝授などの功績でも知られているようです。京都では三年間講師として西洋の科学技術を教えたと云います。
ワグネルが伝えた技術は石版印刷、ガラス、陶磁器、七宝焼、石鹸、清涼飲料の製造、合金、旋盤、電気メッキ、理化学機器の製造、など多岐にわたり京都近代化の功績に貢献した人物です。
京都だけではなく、京都発信の日本の工業技術に大きく貢献したといっても過言ではないでしょう。

特に島津源蔵はワグネルに大きな影響を受け、理化学機器への関心を深めていくことになります。その後の島津は今に伝わる島津製作所につながります。
その歴史を展示するのは二条木屋町にある島津創業記念資料館です。
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そこにはワグネルが島津源蔵に贈ったとされる足踏み式の旋盤なども展示されています。


舎密局では、多くの優秀な人材を育てました。
京都舎密局は、1881年に京都府知事の槇村正直さんが転任されて、その後、閉鎖されてしまったようです
1895年には、舎密局跡の建物も焼失してしまったそうで、現在は、銅駝美術工芸高校が建っています。
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大阪舎密局のほうは、後の京都帝国大学へ発展していきました。
いづれも日本の近代工業化に寄与した施設だったんですよね。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-02-12 12:50 | (歴史)京都史 | Comments(2)

Commented by toshi at 2012-02-13 07:01 x
東京の理化学研究所は 遥かに遅れて大正6年ですから 京都の先進性は此処でも発揮されていますね
Commented by mo-taku3 at 2012-02-13 23:52
何度も思いますが、東京遷都は京都人にとってショックだったのでしょう。必死に活性化に取り組んだようです。
toshiさんに訂正です。石峯寺が深草のお寺でした。大原野の石峰寺は西国33寺の一つでした。