人気ブログランキング |

京都寺町通りの歴史散歩

京都寺町通りの歴史散歩


寺町通は、京都市の南北の通りの一つで、河原町通りの一本西側の通り。
この寺町通の名は、天正17年(1589)頃、豊臣秀吉の都市計画により洛中の寺院が集められたことに由来する。この通りや近辺にはさすがにお寺が多い。
寺町通りは、北が紫明通から南は五条通まで。途中の三条通で以北に比べ以南は西に少しずれており、真っ直ぐではないのが特徴。三条以北は平安京の東京極大路(ひがしきょうごくおおじ)にあたる。
京極とは平安京の端という意味で、東京極とは東の端ということになる。
この通りは京都の若者が集まるところ。
また、以前はこの通りも山鉾が通っていたという。
この看板は、三条通りにあるもの。
e0237645_9214244.jpg

さて、この寺町通りを北に向かい、御池通りを超えて暫く行くと、「本因坊発祥の地」の標示があった。
e0237645_9215869.jpg

ここに書かれている、寂光寺は別名を久遠寺ともいい、通りをはさんだ西側の町名「久遠院前町」にその名残が見られる。
寂光寺の塔頭「本因坊」に住まいしていた僧侶の日海(1559~1623)は、信長・秀吉時代から囲碁の名人として名高く、江戸幕府が開かれると、徳川家康の命によって寺を弟子に譲り、本因坊算砂と改名して幕府の碁所を任されていた。
以降、本因坊の名は世襲で受け継がれたが、21世の秀哉は、真の実力者が本因坊を名乗るべきとして、その名跡を日本棋院に譲り渡し、昭和11年(1936)今なお続く選手権制の「本因坊戦」が誕生した。
この表示のすぐ横にはこんなものがあった。ここに表示版を建てたときに作られたもののようだ。
e0237645_19213724.jpg

e0237645_1922103.jpg

寂光寺は、別名を久遠寺ともいい、通りをはさんだ西側の町名「久遠院前町」にその名残が見られる。
e0237645_922932.jpg

宝永の大火(1708)で羅災した寂光寺は現在、仁王門通東山西入に位置し、算砂愛用の盤石や算砂直筆の囲碁狂歌などの貴重な史料を蔵している。

更に進むと行願寺がある。ここは西国三十三ヶ寺の19番目の札所である。
行願寺は寛弘元年(1004年)、行円が一条小川の一条北辺堂跡に創建したものである。
一条北辺堂については、『日本紀略』永祚元年(989年)8月13日条に「一条北辺堂舎倒壊」とあり、行願寺の創建以前から存在したことが裏づけられる。当初の寺地は現在の京都市上京区、京都御苑の西方で、付近に革堂町、革堂仲之町、革堂西町の町名が残る。
行円は仏門に入る前は狩猟を業としていたが、ある時、山で身ごもった雌鹿を射たところ、その腹から子鹿の誕生するのを見、殺生の非を悟って仏門に入ったという。行円はその鹿の皮を常に身につけていたことから、皮聖、皮聖人などと呼ばれ、寺の名も革堂と呼ばれた。行円の生没年は未詳だが、比叡山の横川(よかわ)出身の聖と推定されている。
e0237645_9221988.jpg

藤原道長の息の藤原顕信は寛弘9年(1012年)、行円のもとで剃髪出家している。
行願寺は豊臣秀吉による都市計画のため、天正18年(1590年)に寺町荒神口(現・上京区、京都御苑東側)に移転。宝永5年(1708年)の大火の後、寺町荒神口の旧地からやや南に下がった現在地に移転した。
e0237645_922284.jpg

下御霊神社
祭神は以下の八柱で、「八所御霊」と称される。
その理由は、以下の諸神は(吉備真備を除いて)いずれも政争に巻き込まれて憤死した人々で、その怨霊を慰めるために創建されたのである。
*吉備聖霊
吉備真備とされることも多いが、吉備真備は憤死した人ではないので、神社側は六座の神霊の和魂と解釈している。
・崇道天皇(桓武天皇の皇太子、早良親王)
・伊予親王(桓武天皇の皇子)
・藤原大夫人(伊予親王の母、藤原吉子)
・藤大夫(藤原広嗣)
・橘大夫(橘逸勢)
・文大夫(文屋宮田麻呂)
*火雷天神
この火雷天神は菅原道真とされることも多いが、神社の創建は道真が天神とされるよりも以前なので、神社側は六座の神霊の荒魂と解釈しているようだ。
また、相殿に天中柱皇神・霊元天皇が祀られている。
e0237645_9223752.jpg

桓武天皇の時代、各地で疫病が流行した。これは御霊の祟りであるとして、貞観5年(863年)5月20日、平安京の神泉苑で御霊会が催された。この御霊会が当社および上御霊神社の創祀であるとしている。古来より京都御所の産土神として崇敬された。享保年間に霊元天皇の霊を配祀した。
元は出雲路の上御霊神社の南にあったことから下御霊神社と呼ばれるようになったと伝えられる。後に新町出水に移され、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の都市整備にともない現在地に遷座した。
なお、式内社研究家の志賀剛は延喜式神名帳に記載される出雲井於神社(式内大社)を当社に比定している。
e0237645_9224896.jpg

境内には、丁度紅梅が2本満開を迎えていた。桜かと見間違うほど背の高い木だったが、根元には紅梅との表示がなされていた。
e0237645_9225750.jpg

また、これも樹齢が長そうなそして太く貫録のある、「サルスベリ」の木が印象に残った。
e0237645_923680.jpg

更に、北に進み丸太町通を渡ると、と“絹の石鹸”と書いてあるお店が見えた。ちょっと外から覗いてみたがよくわからなかった?
e0237645_9232860.jpg

この店限定の商品も飾ってあった。
e0237645_9233810.jpg


ここで一服。
丸太町通北側から見た、寺町通り。
e0237645_924225.jpg

同じところから西を向くと、直ぐ京都御苑(京都御所)があり、丸太町通西入るとなる。
このまま京都御苑に沿って寺町通りは続いている。
e0237645_9241376.jpg

さて、ほんのちょっと北に行くと新島襄(同志社大創立者)のゆかりの建物が見えてくる。
まず、新島会館
e0237645_9242616.jpg

新島 襄はキリスト教の布教家。同志社英学校(後の同志社大学)を興した。
福澤諭吉らとならび、明治六大教育家の1人に数えられている。

新島襄は安中市で生まれ、若くしてアメリカに渡りアメリカではキリスト教に帰依し、キリスト教の布教家として帰国している。
新島襄は、明治7年(1874)11月29日に、元治元年(1864)以来十年ぶりに父母姉妹と再会している。
その後、新島襄は、京都に同志社英学校を設立してキリスト教を基にした人格教育を行うことに全力を尽くし、明治23年(1890)1月23日に神奈川県の大磯で亡くなりました。
e0237645_9244842.jpg

ここは京都で住んでいた時の建物で、旧宅とされ、保存されている。
e0237645_925359.jpg

直ぐ先に、「京都歴史資料館」と書かれた建物があったので初めて入ってみた。
e0237645_925155.jpg

入口の看板には、テーマ展「京都の町式目」(江戸時代初期を中心に)とあった。
e0237645_925287.jpg

中に入ると「口上」が書かれていた。
その内容は京都の町々には「町式目」というものがあり、それを資料して展示しているとのこと。
e0237645_9254040.jpg

冷泉町の式目。じっくり見ていただきたい。びっくりするような内容が書かれている。
e0237645_9255450.jpg

下本能寺前町
e0237645_926677.jpg


京都歴史資料館を出て、しばらく歩くと、梨木神社がすぐ側にあり、廬山寺や御所の方向指示が表示されていた。廬山寺には、紫式部邸宅跡の表示があった。
e0237645_9261935.jpg


廬山寺についた。
比叡山延暦寺の中興の祖である良源(元三大師、慈恵大師)により天慶元年(938年)に京都の北山に創建。寛元元年(1243年)に法然の弟子である覚瑜が船岡山の南麓に再興、中国の廬山にならい廬山天台講寺と号した。
元亀3年(1571年)、織田信長の比叡山焼き討ちは正親町天皇の女房奉書により免れたが、豊臣秀吉の寺町建設によって天正年間に現在地に移った。度々の火事のため、現在の堂宇は寛政6年の再建になるものである。
e0237645_9264041.jpg

廬山寺の沿革が詳しく載っている。
e0237645_9265540.jpg

1965年(昭和40年)に考古・歴史学者角田文衞により紫式部邸跡とされた。御黒戸四箇院のうち現存する唯一の摂家門跡である。
諸説あるが、ここが【源氏物語】が執筆されたところとされている。
e0237645_927660.jpg

紫式部の旧宅には娘の「大貳三位」のゆかりの地でもあり、二人そろった歌碑が紹介されている。
e0237645_9272398.jpg

e0237645_9273643.jpg


ここには秀吉の命により作られた、京都を囲む城壁となった、“御土居”の跡があった。
e0237645_9274946.jpg



この御土居については、別途【追加】投稿してあるので、ご覧いただきたい






この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-03-31 00:45 | (歴史)京都史 | Comments(2)

Commented by toshi at 2012-04-02 07:10 x
今回は盛り沢山ですね 一枚ずつでひとつの記事が出来てしまいそうです 寺町通りは 伊藤組紐店を探して歩いたことが有ります
本因坊は 以前から行きたかった所 今村俊也九段はNHKの講座で拝見したことが有りますが好きな棋風の一人です
寺町通りだけで一日過ごせそうですね
Commented by mo-taku3 at 2012-04-02 18:26
結構疲れました。
まだまだ精緻に見てはいません。もう、2・3回行っても話題はありそうです。
云われるとおり、1つに載せすぎですよね。
これから、気を配りたいと思います。