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平野国臣殉難の地(勤皇の志士)

平野国臣殉難の地(勤皇の志士)



幕末尊王攘夷派の指導者平野国臣が処刑されたところである。
この地はもと「六角獄舎」があったところで、安政の大獄以後は多くの政治犯が収容されていた。国臣は、生野の乱に挙兵して捕えられ、元治元年(1864)1月17日ここに収容された。
同年7月19日禁門の変(蛤御門の変)の兵火の中で、幕吏は獄中の尊王攘夷派の志士たちを斬った。
この時斬られた一人が国臣である。
この難にあったものは、国臣のほか37名にのぼった。
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当地は、宝暦4年(1754)に医師山脇東洋がわが国で初めて死体解剖を行ったところと言われ、ならんで記念碑がある。
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情勢が勤王派に有利となった文久3年(1863年)3月に藩牢から釈放された。
この頃、京都では長州藩が攘夷派公卿と結んで朝廷を牛耳り、天誅と呼ばれる暗殺事件が頻発していた。
そして、理論家の真木和泉が画策した大和行幸の勅命が下る。天皇の攘夷親征を決行する計画であった。
8月16日、京へ上っていた国臣は学習院出仕に任ぜられた。この頃の学習院は三条実美を中心とする攘夷派公卿の政策決定の場となっており、格式も高く足軽身分の国臣としては相当な大抜擢であった。
17日、国臣は三条から中山忠光、吉村寅太郎らの天誅組の制止を命じられた。天誅組は大和国五条天領の代官所を襲撃して挙兵していた。19日、国臣は五条に到着するが、その前日の8月18日に政局は一変してしまっていた。会津藩と薩摩藩が結んで政変を起こし、長州藩を退去させ、三条ら攘夷派公卿を追放してしまった(8月18日の政変)。
急ぎ京へ戻るが、すでに京の攘夷派は壊滅状態になっていた。
国臣は未だ大和で戦っている天誅組と呼応すべく画策。但馬国の志士北垣晋太郎と連携して、生野天領での挙兵を計画した。
周防国三田尻へ赴き、長州藩に庇護されていた攘夷派公卿沢宣嘉を主将に迎え、元奇兵隊総管河上弥市ら30数人の浪士とともに生野に入った。この時点で天誅組は壊滅しており、国臣は挙兵の中止を主張するが、天誅組の仇を討つべしとの強硬派に押されて挙兵に踏み切った。10月12日に生野代官所は無抵抗で降服。農民に募兵を呼びかけて2,000人が集まり意気を挙げた。
だが、幕府の対応は早く、翌日には周辺諸藩が兵を出動させた。浪士たちは浮足立ち、早くも解散が論ぜられ、13日の夜に主将の沢が逃げ出してしまった。
農民たちは騙されたと怒り、国臣らを「偽浪士」と罵って襲いかかった。国臣は兵を解散して鳥取への脱出を図るが、豊岡藩兵に捕縛され、京へ護送され六角獄舎につながれた。

元治元年(1864年)7月、禁門の変を端にして発生した火災(どんどん焼け)は京都市中に広く延焼。獄舎に火が及び、囚人が脱走して治安を乱すことを恐れた京都所司代配下の役人が囚人の処刑を決断。処分は未決状態ではあったが、他の30名以上の囚人とともに斬首された。享年37。明治24年(1891年)、正四位を贈られた。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-04-08 22:56 | (歴史)京都史 | Comments(2)

Commented by toshi at 2012-04-12 07:13 x
通常 火災の折に囚人は解き放しが一般的であったと記憶しますが 歴史の中にはこのような悲惨な話も沢山ありますね 正四位というのは破格の処遇ですね 明治政府の露骨な反徳川施策に違和感を感じます
Commented by mo-taku3 at 2012-04-12 17:50
為政者がかわると必ず起こる前任者否定のケースです。
家康も徹底的に豊臣の色を消す施策をうっています。
先に、近代医学・・・を載せましたが、この獄舎の囚人を対象にした解剖だった訳で、業績を周知するにはあまり体裁のよくない話になるのが問題だったのかなぁ、とも思っています。