アテルイ(阿弖流爲)・モレ(母礼)と坂上田村麻呂
このアテルイはNHKで放映されることとなった。
以前ここでも紹介させていただいたが、その内容に一部追加して再登場させてみました。
ご存知のように、坂上田村麻呂は最初の「征夷大将軍」として、蝦夷地(現在の東北地方)を平定したことで有名である。
『日本紀略』には、坂上田村麻呂が蝦夷地に遠征した際、802年の4月15日、蝦夷勢力の大墓公阿弖利爲(アテルイ)と盤具公母礼(モレ)が500余人を率いて降伏したことが記されている。
その後、2人は田村麻呂に従い7月10日に平安京に入った。田村麻呂は2人の命を救うよう提言したものの、平安京の貴族たちは「野性獣心、反復して定まりなし」と反対したため、8月13日に河内国にてアテルイとモレは処刑された。
田村麻呂が創建したと伝えられる京都の清水寺境内には、平安遷都1200年を記念して、1994年(平成6年)11月に「アテルイ・モレ顕彰碑」が建立されている。
大阪府枚方市の牧野公園内の首塚にも、2007年(平成19年)3月に「伝 阿弖流為・母禮之塚」の石碑が建立された。
2005年(平成17年)には、アテルイの忌日に当たる9月17日に合わせ、岩手県奥州市水沢区羽田町の羽黒山にも阿弖流爲・母礼慰霊碑が建立されている。同慰霊碑は、アテルイやモレの魂を分霊の形で移し、故郷の土の中で安らかに眠ってもらうことを願い、地元での慰霊、顕彰の場として作られた。
2004年(平成16年)秋に枚方の牧野公園内首塚での慰霊祭の際に、奥州市水沢区の「アテルイを顕彰する会」によって採取された首塚の土が埋葬されている。
この石碑の傍の清水寺(坂上田村麻呂?)が見下ろす位置には、岩手県水沢市が植えたしだれ桜があった。
この項 <完>
by mo-taku3 | 2013-01-15 22:36 | (歴史)京都の歴史 | Comments(6)
かな漢変換でアテルイと入れると この漢字が出て来ますが 昔何処かで名前を聞いた程度で殆ど知識も有りません
田村麻呂の戦いは それ程激烈なものではなくむしろ稲作を教えながら領地を拡大していったのだと読んだ記憶が有ります
その後も和人を信用できず、平安時代後期まで抵抗が続いていました。
それまでは、下克上・裏切りなどは当たり前のことだったようで、建武の中興から室町時代へ、完全に移行するときは極め付きだったと思います。
ところで後ほどメールしますが、嵯峨野コミュニティの宿泊キャンセルは他のホテルとほぼ同じような状況のようです。
ただ予約した後、会社の総務から連絡を入れると少しは融通が利くかもとのことでした。