八つ橋の発祥は?その2
東山通り丸太町交差点北側に、熊野神社がある。
その直ぐ隣に、「八つ橋発祥の家」なるものが存在し、大きな提灯がぶら下がっている。

その提灯をよく見ると、【八つ橋 西尾本家】とでている。

「八つ橋の発祥」
八つ橋の発祥については、どうも「西尾本家」と「聖護院八つ橋」との本家争いがあるようだ。
以前から聞いていたのは、八橋倹校が祖であるとの看板を見ていた。
しかし、発祥説が色々あって、今となっては分からないのが現状であるらしい。
そこで、それぞれの言い分を伺おう。(HPより)
「西尾八つ橋」
現在の八ッ橋の原型となる、橋の形をした素朴なおせんべいが誕生しました。文政七年に熊野神社に奉納された絵馬に「八ッ橋屋為治郎」の名前が残っていることからも、「八ッ橋屋と言えば、西尾」だったのです。
本家西尾八ッ橋の歴史は、聖護院の森の「八ッ橋屋梅林茶店」にさかのぼります。
当時、商っていたのは米粉を使って作られた、素朴な「白餅」。東海道を行く旅人の携帯食としても重宝されていました。
八ツ橋は粳米粉でつくった焼き菓子。享保(1716~36)の頃,箏曲八橋流の祖八橋検校(1614~85)の墓がある黒谷で,琴形の煎餅を売ったのが最初とも,黒谷の茶店主人が夢で検校から製法を習ったともいわれる。
のち聖護院村の八ツ橋屋に生まれた西尾為治(1879~1962)は,元禄からの古法に改良を重ね八ツ橋中興の祖と呼ばれた。
その銅像が西尾八つ橋の隣りの熊野神社にある。

熊野神社は非常に由緒ある神社である。

この石標は八ツ橋発祥の聖護院森跡を示すものである。なお,石標の横には西尾為治の銅像が建つ。 (駒札より)


「聖護院八つ橋」
「聖護院八つ橋」のHPには、次のように書かれている。
「聖護院」とは、地名(もしくは聖護院門跡の通称)で、「八ツ橋」は、人名の「八橋検校」に由来しております。
(これは少々疑問がある。
ここに地名とあるが、聖護院門跡寺院ができ、地名がつけられたといっていい。)
聖護院門跡寺院は次のように、駒札に紹介されている。
特に書院は京都御所から移設されたと書かれており、重要文化財となっている。


(余談であるが、この寺院の宗派は珍しい。)
近世箏曲の開祖といわれる八橋検校が、慕う数多くの高弟・門弟たちに見守られて、貞享2年(1685)6月12日亡くなり、黒谷金戒光明寺に葬られました。
享年72才であったといわれております。
その後、亡き師のご遺徳を偲び門弟たちが、続々絶え間なく墓参におとづれ続けましたが、歿後4年の元禄2年(1689)黒谷参道の聖護院の森の茶店で、琴の形に似せた干菓子を、「八ツ橋」と名付けて発売するようになりました。
これが「八ツ橋」の始まりといわれており、その場所が当社創業の地(現在の本店の場所:左京区聖護院山王町)であります。」

ということになっておりますが・・・。
以上、二つの情報から見ると、
①八橋検校は、八つ橋とは直接的には関係ないと言える。
②黒谷参道の聖護院の森の茶店で、琴の形に似せた干菓子を、「八ツ橋」と名付けて発売するようになりました。というのは事実として判断。
③両社とも発祥は「聖護院の森」と言っておりその場所が異なる。
④西尾は八つ橋屋を名乗っている。
ということから、発祥については、事実がはっきりしていないと断定していいと思う。
ただ、八ツ橋屋に生まれた西尾為治(1879~1962)は,元禄からの古法に改良を重ね八ツ橋中興の祖と呼ばれているのは事実であり、発展に努力したといえる。
結論としては、現在の八つ橋は西尾が築いたといっていいのではないか。
この二店の本店は、通りを挟んで向かい合っており、両者ともかなりの敷地を占めている。
それでも、意外と根は一緒なのかも?



とにかく、京都を問わず、何処にでもあるようなことだが、古さを問う京都ならではの切実な問題であろう。
しかし、京都以外では、八つ橋は「おたべ」という印象があり、古さを競うより、食の品質で競ってほしい。
この項 <完>
by mo-taku3 | 2012-06-05 01:23 | Comments(2)