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【紀三井寺(和歌山)】西国霊場第二番

【紀三井寺(和歌山)】西国霊場第二番


<紀三井寺 縁起>
紀三井寺は、奈良朝時代、光仁天皇の宝亀元年(770)、唐僧・為光上人によって開基された霊刹。
そして諸国を巡り、観音様の慈悲の光によって、人々の苦悩を救わんがため、仏法を広められた。行脚の途次、この地に至り、夜半名草山山頂あたりに霊光を観じられて翌日登山され、そこに千手観音様の尊像をご感得になった。
上人は、この地こそ観音慈悲の霊場、仏法弘通の勝地なりとお歓びになり、十一面観世音菩薩像を、自ら一刀三札のもとに刻み、一字を建立して安置されました。それが紀三井寺の起こりとされている。
その後、歴代天皇の御幸があり、また後白河法皇が当山を勅願所と定められて以後隆盛を極め、鎌倉時代には止住する僧侶も五百人を越えたと伝えられていまる。江戸時代に入ると、紀州徳川家歴代藩主の肝いりで、「紀州祈祷大道場」として崇された。
正式には「紀三井山金剛宝寺護国院(きみいさんこんごうほうじごこくいん)」という当時の名称を知る人は少なく、全国に「紀三井寺」の名で知られていますが、この紀三井寺とは、紀州にある、三つの井戸が有るお寺ということで名付けられたといわれている。

門前町の風情が出ている。
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何といっても、那智黒でしょう。
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「結縁坂」の由来
紀三井寺の楼門から上に、231段の急な石段がある。
参詣者泣かせの急坂ですが、この坂は、結縁坂(けちえんざか)と呼ばれ、次のような”いわれ”が伝えられている。
「江戸時代の豪商・紀ノ国屋文左衛門は、若い頃にはここ紀州に住む、貧しいけれど孝心篤い青年でした。
 ある日、母を背負って紀三井寺の表坂を登り、観音様にお詣りしておりましたところ、草履の鼻緒が切れてしまいました。
困っていた文左衛門を見かけて、鼻緒をすげ替えてくれたのが、和歌浦湾、紀三井寺の真向かいにある玉津島神社の宮司の娘「おかよ」だった。
これがきっかけとなって、文左衛門とおかよの間に恋が芽生え、二人は結ばれることになった。
後に、文左衛門は宮司の出資金によって船を仕立て、蜜柑と材木を江戸へ送って一代で財を成した。
紀ノ国屋文左衛門の結婚と出世のきっかけとなった紀三井寺の表坂は、それ以来「結縁坂」と呼ばれるようになった。」 と。
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<紀三井寺三井水>
紀州にある、三つの井戸のあるお寺。紀三井寺は、三井水を抜きにして語れません。千二百年来の寺名の由来ともなった三井水は、今も名草山の懐に抱かれ、滾々と絶えることなく湧き出しています。この由緒ある紀三井寺三井水(北より吉祥水・清浄水・楊柳水)は、昭和60年、環境庁が発表した「名水百選」に選ばれています。
 開山為光上人が寺を開いて間もなく、大般若経六百巻を写経し終った時、上人の前に竜宮の乙姫が現れ、上人に竜宮での説法を乞うて中ノ瀧 清浄水に没したとある。
 「紀伊国名迹志」・「紀伊国名所図絵」・「紀伊続風土記」等にも三井水について詳細に述べられており、また紀州初代藩主徳川頼宣公が慶安三年(一六五〇)三井水を整備されたことが知られている。
 わけても中央清浄水は、古来名泉中の名水として、茶の湯、お華の水、墨の水に又酒、味噌、醤油等の醸造家はひそかにこの霊水を汲みて仕込みに混じ、観音様のご冥護を祈念して来たと伝えられる。
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西国三十三所観音霊場第2番目の札所である紀三井寺は、観音信仰の隆盛に伴い、お参りする人の数は多く、ご宝前には日夜香煙の絶え間がない。
特に、ご本尊・十一面観世音菩薩様は、厄除・開運・良縁成就・安産・子授けにご霊験あらたかとされ、毎月十八日の観音様ご縁日を中心に、日参、月参りの信者でにぎわう。
春は、早咲きの名所として名高く、境内から景勝・和歌の浦をはじめ淡路島・四国も遠望出来る紀三井寺は観光地としても有名で、古来文人墨客にして杖引く人も多く、詩歌に、俳諧に、絵画にと、多くの筆の跡が遺されている。
紀三井寺は以前、真言宗山階派の寺院でしたが、昭和26年に独立し現在は、山内・県下あわせて十六ヶ寺の末寺を擁する救世観音宗(ぐぜかんのんしゅう)の総本山となっている。
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西から見た本堂。
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本堂にある納経所には、団体客の朱印をまとめたツアーガイドが汗だくで記帳をしてもらっていた。
これでは、朱印の意味はあまり無いのでは?
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「十一面観音菩薩」の撮影ができなかったので、提灯で代役させていただいた。
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鐘楼も重要文化財だった。
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お百度とお千度が並べて置かれてあった。
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春子稲荷
天正13年(1585)、豊臣秀吉紀州攻めの時、紀三井寺の法橋徳順の子・平太夫は寺を守る僧兵の大将として出陣した。しかし僧兵軍は散々な目にあい、自身も瀕死の状態で逃げ帰ったきた。
その時、平大夫にすがりついて泣いたのが観音堂に仕える巫女の春子姫。恋仲にあった平大夫が息をひきとると、春子は観音堂へこもってお経を唱え始め、やがて声が激しくなると、一匹の白狐となって石段を駆け下り、 迫っていた攻撃軍の総大将・秀長と掛け合い、秀長から「寺に無礼があってはならぬ。寺への軍勢の出入りも禁止する」という証文をとりつけ、それを持ち帰り、観音堂で絶命した。そのお陰で紀三井寺だけは焼き討ちをまぬがれたと言われている。
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絶景かな!和歌浦が見事に見渡すことができた。
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<紀三井寺の詠歌>
これは、西国第二番・紀三井寺のご詠歌(えいか)です。
西国札所には、各霊場にこうしたご詠歌が伝えられています。
今からおよそ一千年ほど昔、第65代・花山天皇がご退位になり、出家落飾して、花山法皇となられて後、高僧のお導きで、西国三十三所の観音霊場をご巡拝になられました。その折この花山法皇様が、各霊場に一首ずつご奉納になられた和歌が、これら札所ご詠歌となったと伝えられています。

紀三井寺のご詠歌は、花山法皇様がご自身の「ふるさとである京の都を後にして、幾千里の山河を越え、熊野・那智山からはるばるここ紀三井寺にやっとの思いで到着してみると、折から水ぬるむ春近き季節で、わがふるさと、京の都も近づいたこともあって、ほっと安堵することよ」とのご心境をお詠みになったものでしょう。
しかし、もう一つ仏の道からの解釈によりますと、
「迷いの多い娑婆世界を後にして、観音信仰ただ一筋におすがりし、一足一足に「南無観世音菩薩」とお称えしつつこの紀三井寺まで参りましたところ、迷いに閉ざされていた心の眼も次第に開かれて、花の都、仏様のお浄土も間近なように思えます」
とのお心にも受け取ることが出来ようかと思われます。

ちなみに、その昔徳道上人によって開かれた後、次第にすたれていた西国札所の巡礼道は、この花山法皇の巡拝を機に再興されました。その為、花山法皇は「西国札所中興の祖」と尊崇されています。
(京都市山科の元慶寺は、花山法皇落飾(ご出家)の寺、兵庫県三田の花山院は、花山法皇が晩年を過ごされた菩提寺として有名で、現在でも西国札所番外寺院として、巡礼さん達の多くが訪れます。)






この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-05-08 00:37 | (巡礼)西国三十三ヵ所 | Comments(2)

Commented by toshi at 2012-05-14 07:13 x
40年前に訪れたように思うのですが 記憶が定かではありません 231段と聞くと少し勇気が要りますね
千手十一面観音は松本明慶師の作品なんですね 日本一の大きさだそうで スカイツリーよりも此方の方が拝観したくなりますね
Commented by mo-taku3 at 2012-05-17 10:36
231段とはいっても、途中に寄るべきところが幾つもあって苦にはなりません。
千手十一面観音は新しく作られたものだと思いますが、有料での展示がありました。
中は撮影禁止でしたが、知らずに写した?写真がありますので、後で送ります。