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宇治平等院鳳凰堂(阿弥陀堂)

宇治平等院鳳凰堂(阿弥陀堂)



京都市の南に位置する宇治は、『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台であり、平安時代初期から貴族の別荘があった。その代表的なのが平等院である。
その平等院を語る前に、この橋のふもとには源氏物語の「夢の浮舟;最終話」についての逸話が載っていた。
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源氏物語には意に反した男性と関係を持った女性は複数登場する。その結果それぞれが、男から逃れるために出家を余儀なくされている。浮舟も投身自殺が未遂に終わって横川の僧都に助けられ、山里で静かに暮らしていたが、また言い寄る男が出てきてついに出家する。薫が彼女の弟に文を持たせてくるが、手紙を受け取らず、使いの弟にも会わない。やっと浮舟は自分で自分の態度を決めることができた。
 
もう少し、詳しく状況をみると次のような内容である。
「薫は比叡山の奥・横川(よかわ)を訪ね、小野で出家した女について僧都に詳しく尋ねた。「その女は浮舟に違いない」と確信した薫は夢のような気がして涙を落とした。その様子を見て、僧都は浮舟を出家させたことを後悔した。薫は僧都に浮舟のいる小野への案内を頼むが僧都は「今は難しいが来月なら御案内しましょう」と述べる。薫は浮舟への口添え文を僧都に懇願して書いてもらう。
その夜、横川から下山する薫一行の松明の火が、浮舟がいる小野の庵からも見えた。 妹尼たちが薫の噂をする中、浮舟は薫との思い出を払うように念仏を唱える。
翌日、薫の使者として 浮舟の異父弟・小君が小野を訪れた。朝早くに僧都から前日の事情を知らせる文が届いており、妹尼たちが浮舟の素性に驚いていたところだった。小君が持参した僧都の文には、薫との復縁と還俗の勧めをほのめかしてあった。簾越しに異父弟の姿を見た浮舟は動揺するが、結局は心を崩さず、妹尼のとりなしにも応ぜず、小君との対面も拒み、薫の文にも「(宛先が)人違いだったらいけない」と言って受け取ろうとしなかった。むなしく帰京した小君から「対面できず、お返事も頂けなかった」と聞いた薫は(自分が浮舟を宇治に隠していたように)「他の誰かが浮舟を小野に隠しているのではないか」と思うのだった。」
となる。
源氏物語は女性たちのさまざまな哀しみを語っている。
物語の美しさはその「あわれ」から生まれている。
それがこの最終章の史跡である。
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宇治橋の横には、紫式部像の他このような「夢の浮橋」の古蹟が置かれている。
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どうゆう訳か、季節外れのシャクナゲが一輪の花を添えていた。
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さて、話を平等院に戻そう。
9世紀末頃、光源氏のモデルとも言われている左大臣、源融(嵯峨源氏)の別荘だったものが、宇多天皇に渡り、摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となったものである。
道長の子の関白藤原頼通は、永承7年(1052年)、宇治殿を寺院に改め、これが平等院の始まりである。
創建時の本堂は、阿弥陀堂(鳳凰堂)の北方、宇治川の岸辺近くにあり、大日如来を本尊としていたが、翌天喜元年(1053年)に阿弥陀堂(現・鳳凰堂)が建立された。
本尊阿弥陀如来像を安置する中堂(ちゅうどう)、左右の翼廊、中堂背後の尾廊の計4棟が「平等院鳳凰堂」として国宝に指定されている。中堂は入母屋造、裳階(もこし)付き。東側正面中央の扉を開放すると、柱間の格子は本尊の頭部の高さに円窓が開けられており、建物外からも本尊阿弥陀如来の面相が拝せるようになっている。
阿弥陀如来の住する極楽浄土は西方にあると信じられており、池の東岸(あるいは寺の前を流れる宇治川の東岸)から、向かい岸(彼岸)の阿弥陀像を拝するように意図されたものである。
中堂の屋根上には1対の鳳凰(想像上の鳥)像が据えられているが、現在屋根上にあるのは複製で、実物(国宝)は取り外して別途保管されている。
本尊阿弥陀如来像(国宝)は仏師定朝の確証ある唯一の遺作。本尊を安置する須弥壇は螺鈿(らでん)や飾金具で装飾され、周囲の扉や壁は極彩色の絵画で飾られ、天井や柱にも彩色文様が施されていた。
長押(なげし)上の壁には楽器を奏で、舞いを舞う姿の供養菩薩像の浮き彫り(現存52体)があり、本尊の頭上には精巧な透かし彫りの天蓋(てんがい)を吊る。
現在、壁画は剥落が激しく、柱や天井の装飾は色あせ、須弥壇の螺鈿は脱落しているが、創建当時の堂内は、当時の貴族が思い描いた極楽のイメージを再現した、華麗なものであったと思われる。
なお、「鳳凰堂」の呼称は、当初は「阿弥陀堂」あるいは単に「御堂」と呼ばれていた。日本の10円硬貨には平等院鳳凰堂が、一万円紙幣には鳳凰堂の屋根上に飾られている鳳凰がデザインされている。
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本尊の頭部の高さに円窓が開けられており、建物外からも本尊阿弥陀如来の面相が拝せるようになっている。この面相が拝せるようになっている造りは、藤原時代の特徴でもある。
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天気がよく、池の水面にも鳳凰堂が浮かび上がるとともに、今日は空が透き通る青さだった。
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近年史跡の維持管理の一環で補修・整備が行われ、全体的にきれいになっていた。
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丁度池のハスの花がきれいに咲いていた。
全てに、満足できる内容であった。
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さてここで、源頼政について一席講釈を述べさせていただきたい。
以仁王(もちひとおう)をご存じだろうか。
以仁王は、諸国の源氏武士や大寺院に宛てて令旨(りょうじ;皇太子・三后(太皇太后・皇太后・皇后) の命令を伝えるために出した文書をいう) を発し、清盛の追討を呼びかけた。
以仁王の動きを知った清盛は、身柄の確保をはかったが、王はからくもこれを逃れ、 園城寺(おんじょうじ;三井寺) に逃れる。
園城寺を出て南都の興福寺 に向かった以仁王は、五月二十六日に南山城(みなみやましろ) で討たれ、また、王に味方して反平氏に最初の挙兵をした、源頼政も宇治川の戦いで敗れ、宇治平等院で自害した。
このように以仁王の反乱そのものはあっけなく終わりを告げたが、王の発した令旨は、清盛たち平氏に反感を持つすべての勢力に戦いの大義(たいぎ) 名分(めいぶん) を与えるものとして、きわめて大きな力を発揮した。
以仁王の挙兵に続いて、木曽義仲、源頼朝と続々と挙兵していくことになる。
その平氏打倒の先鞭をつけた、源三位頼政が自刃した史跡がこの“扇の芝”で、扇形の芝生が今もきれいに整備されている。
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扇形に囲いができており、頼政はその中で自刃し石碑が建てられている。
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また、鳳凰堂の背後にある景勝院に、頼政のお墓が建てられている。
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(付説)現在の平等院は、天台宗系の最勝院、浄土宗の浄土院という2つの寺院(共に鳳凰堂の西側にある)が共同で管理している。浄土院は明応年間(1492年-1501年)、最勝院は承応3年(1654年)の創始であり、平等院が浄土・天台両宗の共同管理となったのは、天和元年(1681年)、寺社奉行の裁定によるものである。





この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-05-23 21:21 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)

Commented by toshi at 2012-05-30 07:58 x
素晴らしい天気 人影の殆ど写っていない鳳凰堂 ひときわ美しく感じます 贅沢です

以仁王の令旨 源三位頼政 歴史の授業を懐かしく想い出します 考えてみると 以仁王の令旨は 単なるクーデターでしかないと思うのですが 清盛に推挙されて三位の地位を得た頼政が76歳という当時としては超高齢者であるにもかかわらず 反旗を翻すところが不思議でもあります
宇治では 上林記念館のルソンの茶壺が印象に残っています 
さらに宇治川の対岸に 興聖寺があります 道元が中国から帰国して最初に開いたお寺ですが お勧めの穴場です
Commented by mo-taku3 at 2012-05-30 20:53
鳳凰堂は、朝9:30から50名ずつ入れての説明となり、9:00前に入り説明前の誰も入っていない状態を撮っています。
鳳凰堂すべての補修を終えてきれいになりましたが、この補修は色を加えたりはせず、傷まないように補填する程度にしているとの説明でした。

以仁王が平氏打倒の令旨を送ったというお寺が、烏丸九条にありますが、このお寺は今ではその面影はありませんが、以仁王の所領だったようです。
頼政については、老い花として平氏打倒のキッカケにでもなればと思って挙兵したように聞いております。
真意はわかりませんが。