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【妙法院】は「天台三門跡」の一つ

「天台三門跡」の一つ【妙法院】



豊国神社や方広寺を見た後、いつもの散歩コースとして東大路通りを北に向かって歩いていたが、いつも気になっていたのが、この妙法院である。

この妙法院は東大路通りの七条を上がったところに位置し、近隣には智積院、京都国立博物館、方広寺(大仏)、三十三間堂などがある。
文献からは次ようなことが分かった。

秀吉の時代に豪壮な庫裏(国宝)や大書院(重文)などが建てられている。
天台宗の三門跡寺院の一つで、他の門跡寺院(青蓮院、三千院など)と同様、妙法院は比叡山上にあった小寺院がその起源とされ、初代の門主は最澄(伝教大師)とされている。(記録によると、比叡山三塔のうちの西塔に所在した「本覚院」が妙法院の起源とされているが、諸説ある。)
その後、平安時代末期(12世紀)、後白河法皇の時代に洛中に移転し、近世初期に現在地である法住寺殿跡地(現在の地)に移転した。
18代門主として尊性法親王(後高倉院皇子)が入寺してからは門跡寺院としての地位が確立し、近世末期に至るまで歴代門主の大部分が法親王(皇族で出家後に親王宣下を受けた者を指す)である。

妙法院が日本史に登場するのは後白河法皇の時代である。
後白河上皇は譲位後の居所(院御所)である法住寺殿の造営を進め、ここで院政が行われ、また御所の西側に千体千手観音像を安置する巨大な仏堂(蓮華王院=三十三間堂)が建てられたことは史上名高い。
鎌倉時代の妙法院は「綾小路房」「綾小路御所」「綾小路宮」などと呼ばれたことが記録からわかり、現在の京都市東山区祇園町南側あたりに主要な房舎が存在したと思われるが、方広寺大仏に隣接する現在地への移転の時期などは正確にはわかっていない。

多分著名な寺院であろうと思っていたが、特に説明される駒札も掲げていなく、?が続いていた。
たまたま、通りがかったのでダメ元(私は歴史上の逸話が無いと興味が出ない。)で門をくぐってみた。

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と直ぐに社務所らしいものが見えてきて、期待が出てきた。

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実は、千体千手観音像を安置する巨大な仏堂(蓮華王院=三十三間堂)は、ここ妙法院が所有・管理していることは余り知られていない。
三十三間堂は、後白河法皇の時代に建てられたもので、その頃から妙法院が所管していた。

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伽藍は西側を正面とし、東大路通りに面して唐門と通用門がある。
境内は西側正面に社務所玄関、その右手に庫裏、またその右手に宸殿が建っている。
東側の境内奥には大書院、白書院、護摩堂、聖天堂などが建っている。
本尊普賢菩薩を安置する本堂(普賢堂)は、やや離れた境内東南方に建っている。
このうち、秀吉の時代に豪壮な庫裏(国宝)や大書院(重文)などが建てられている。

国宝である「庫裏」はを紹介したい。
この庫裏は桃山時代の建築。寺院の台所兼事務所の役割を果たす内向きの建物である。
妙法院庫裏は、豊臣秀吉が先祖のための「千僧供養」を行った際の台所として使用されたと伝える豪壮な建物である。庫裏は屋根を切妻造とするものが多いが、当院の庫裏は入母屋造とする。内部は土間、板間、座敷の3部分に分かれ、土間・板間部分は天井板を張らず、貫・梁などの構造材をそのまま見せた豪快な造りになる。

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駒札には、上記の一部が書かれている。
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とにかく、見事な梁である。
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妙法院は、幕末には、三条実美ら尊皇攘夷派の公卿7人が京都から追放された「七卿落ち」の舞台ともなっている。
この「七卿落ち」の経緯が、書院の欄干に表示されている。

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本堂(普賢堂)は意外に小さいが、本尊普賢菩薩を安置している。

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庫裏(国宝)の右には宸殿があり、「明治天皇妙法院行在所」という石柱があり、門跡寺院として面目を保っている。

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また、お寺の奥・普賢堂の横には、落ち着いた雰囲気の池庭が作られていた。

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この妙法院には、庫裏(国宝)以外にも国宝がある。
『ポルトガル国印度副王信書 - 1955年6月指定』
1588年(日本の天正16年)、インド半島西岸に位置するポルトガル領ゴアのインド副王ドゥアルテ・デ・メネーゼスから豊臣秀吉に宛てた外交文書。羊皮紙製で寸法は縦60.6センチメートル、横76.4センチメートル。豊臣秀吉を祀る豊国廟が破却された際、妙法院に移管された品の1つである。

また重要文化財も多数あり、往時の隆盛がしのばれる。





この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-08-11 00:02 | (仏閣)京都のお寺 | Comments(2)

Commented by toshi at 2012-08-13 07:21 x
詳細の解説有難うございます
妙法院は何時も門が閉まっていて入寺を拒んでいるような印象で何時も通り過ぎていました 北側から入れるんですね 七卿落ちの妙法院大評定が開かれた場所とは知りませんでした 
法住寺殿は後白河法皇の院政場所ですが 御所との間に六波羅が有るのが興味深いです 
Commented by mo-taku3 at 2012-08-13 15:18
いつもありがとう。
東山のこの界隈は家康との関係が強いところで、家康に取り入った寺院が今でも幅を利かしているように感じます。
その代表的なのが、妙法院の隣りの智積院で、元は根来寺の智積院の住職が秀吉に攻められて浪人していたのが、家康の取り入って知行をもらって、今の真言宗智積院派の総本山を占めるに至っています。
妙法院は秀吉の保護下で方広寺なども管理下に置くなどしたこともあり、家康の時代には大幅な寺領の縮小を余儀なくされたのではないかと思います。
どちらにせよ、昔から宗教勢力に悩まされ続けてきた結果、時の権力者は宗派のバランスを考えてきたのは確かで、江戸時代になって、寺社奉行が重要視されたのも頷けるような気がします。