【藤原宮】 平城京の前の都
藤原京は、中国の都城制を模して造られた日本初の本格的な都である。
持統天皇が飛鳥から藤原の地に都を遷したのは694年のこと。新たな都の造営は、亡き夫・天武天皇を意志を受け継いだ中央集権国家の確立には欠かせない一代事業だったと思う。
その大きさは、東西方向約5.3km、南北方向4.8kmで、平城京、平安京をしのぐ古代最大の都であった。
藤原京時代に大宝律令が制定され、貨幣も発行された。
また、初めて「日本」という国号を使用したのも藤原京を発した遣唐使だった。
藤原京は、東西南北に張り巡らされた道路によって街並みが碁盤目状に区切られ、その中に多くの寺院や役所のほか、市場や役人、庶民の住宅や寺院などが計画的に配置されていた。
人口は約3万人と推定されている。
藤原宮では初めて屋根に瓦を葺いている。
藤原京の大きさを現在の地図で見ると、大和三山がすっぽりと入っており、さぞ、美しい情景だったに違いない。藤原宮跡から見る朝陽・夕陽は、平成23年6月には、藤原宮跡からの大和三山の稜線の眺めが、「重要眺望景観」に指定されている。
大極殿は藤原京の中心となる建物で,それを囲む、東西115m,南北155mの範囲を大極殿院という。
大極殿院の南の中央に朝堂院につながる門があった。この門は「大極殿院閤門(だいごくでんいんこうもん)」と呼ばれている。
奥に見える無数の柱はこの門の発掘遺跡を示すもの。
上で述べたが、藤原宮跡の詳しい説明の駒札がある。
また駒札の横に藤原宮跡も見取り図が併示されている。
平城京よりも規模が大きい。
藤原宮の中心地点に、「持統天皇文武天皇藤原宮跡」の石碑があった。文字も削れて見え難い状態でかなり以前に立てられたものに見える。
現在、藤原宮跡では、季節ごとに美しい花が植えられ、菜の花やコスモス、キバナコスモス、ハスなど色とりどりの大地のカーペットを楽しむことができる。
これもコスモスジュータンのポスターである。
藤原宮跡は、藤原京の中心施設である藤原宮のあったところである。
藤原宮は一辺約1kmの中に、大極殿や朝堂院といった国をあげての儀式や政治を行う施設や天皇の住まいである内裏などがあり、現在の皇居と国会議事堂、霞ヶ関の官庁街を合わせた性格を持っていた。
藤原京は16年間の短い都だったが、藤原宮の構造はその後の都にも引き継がれている。
朱雀大路(すざくおおじ)は、藤原京を東西に分ける幅24mの道路です。
現在、朱雀大路は藤原宮の南から日高山までの範囲が復元され、当時の道幅を知ることができる。
この項 <完>
by mo-taku3 | 2012-08-23 13:09 | Comments(2)