嵯峨野散策・残暑強いが秋の気配も・・・。
この日も暑い日だった。
家を出た時は、暑いけど行けるところまで行ってみようと大宮迄歩き、嵐電で嵐山まで行ってみた。
嵯峨野名物の竹林の道は健在で、少し雑木・雑草が増えていたが心持ち涼しくさわやかな風が通り過ぎていた。
嵐電「嵐山」をでて、嵯峨野方面に歩き出したが、洋風外人や中国語・韓国語が聞こえてくることが多く、また、相変わらず日本人は若い子達か、熟年層が多かった。
竹林を抜けると、野宮神社(ののみやじんじゃ)がある。この神社は、若い人向きに「縁結び」をうたっている。
また、人力車はここを活動起点の一つにしている。この日は暑さのせいか、利用客も多そうだ。
野宮神社をとおり、数百m歩くと嵯峨野の道しるべに出会う。
ここからは落柿舎を眺めることができる。
この標識に沿って近いところから順番に回っていくことにした。
まず、常寂光寺に行ってみた。
山門があり、それをくぐると一面の苔庭に圧倒される。
いつも苔庭を見て思うのは、なぜあの瑞々しさを出せるのが不思議であったが、今回庭師の方に思い切って聞いてみた。観光客の居ない朝晩にしっかり水撒きをしているとのこと。
これを聞いて拝観料は決して高くないと感じた次第である。
この階段のの両側だけでなく、一面の苔庭であった。
本道の右手には栗の木があり、誰が乗せたか、いがぐり君が並べられていた。
このお寺、常寂光寺はなだらかではあるが、坂道に建てられており、禅寺のような坂道の多い修行道がかなり上まで続いていた。
次は、落柿舎である。
眺める落柿舎は、こんもりとした林の中に隠れるように存在していた。非常に趣がある。
ここは、芭蕉の門人である、俳人向井去来の寓居だったところであり、侘び寂びの世界として訪れる日本人も多い。
ただ、ここは何度も入っているので、玄関前で失礼させていただいた。
次に、二尊院に足を向けた。
参道をしばらく進みその途中で振替って見ると、このような気持ちのいい眺めがあった。
本堂の境内に入るには、このような門があった。
境内には「小倉餡発祥の地」という石碑がたっていた。
多分ここがほんとの発祥の地であったのだろう。 発祥の地の標識は嵯峨野のあちこちにあったが一箇所にして欲しい気がする。
次に祇王寺に向かう。
とその手前に、滝口入道のお寺である「滝口寺」があり、新田義貞の首塚があるとの説明文に、歴史好きの私の気持ちが動いて寄ることにした。
しかし、中で色んな資料を読むうちに、ここには(滝口の武士と横笛の逸話)と(新田義貞と妻の勾当内侍(こうとうのないし)の凄絶な愛物語)があることがわかった。(これらは後述)
ここでは新田義貞の首塚の写真を載せることにした。
祇王寺は、なにおかいわんや、良いに決まってる。
お寺自体は、小さいながら非常に心のこもったディスプレイになっている。
桔梗の花が一輪アクセントとしてすばらしい。
本堂(庵)内には仏間があり、本尊大日如来像をはじめ、平清盛、祇王、祇女、母刀自、仏御前の木像が安置されています。
質素な本堂(庵)の控えの間に有名な吉野窓がある。
影が虹の色で表れることから、虹の窓とも呼ばれているとのこと。
清盛と祇王の平家物語での話は有名であるので、ここでは、以下の滝口寺での逸話を紹介したい。
(滝口の武士と横笛逸話)
平安時代末期、御所の警護にあたった滝口の武士、斉藤時頼と、平清盛の二女・徳子(のちの建礼門院)付きの女官、 横笛にまつわるもので、『平家物語』に描かれ、のちに明治時代に高山樗牛によって、小説とされている。
斉藤時頼は、あるとき、平清盛の西八条殿で催された花見の宴で、横笛の舞う姿を見て人目ぼれし、恋文を送るようになる。 ところが、このことが父に知れて叱責され、出家してしまう。
想い焦がれる横笛は、ある日、時頼を訪ねて行くが、すでに出家の身であるため、 「ここにはそういう者はいない」と告げさせる。
時頼は、横笛への想いを断ち切るために高野山へ上り、それを聞いた横笛は奈良の法華寺(国分尼寺の総寺)で尼になった。
その後横笛の死を知った時頼は、修行ひと筋の生活を送り、人々の人望を集めて「高野の聖」と呼ばれるようになったと伝えられている。
(新田義貞と妻の勾当内侍(こうとうのないし)の凄絶な愛物語)
鎌倉幕府を滅ぼした武将として名高い新田義貞の首塚がある。
義貞は後醍醐天皇に仕え、足利尊氏と対立し、いったんは尊氏を九州へ追い詰めたものの巻き返され、 越前国で流れ矢にあたって 戦死している。
その首は尊氏の命で、京都に運ばれて晒し首になっていたものを、妻の勾当内侍(こうとうのないし)が盗み出して、 この場所に葬ったと伝えられている。
これも、滝口寺に伝わるもうひとつの、凄絶な愛の物語である。
この項 <完>
by mo-taku3 | 2012-09-02 07:58 | Comments(0)