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京都くろ谷【金戒光明寺】とは

京都くろ谷【金戒光明寺】とは




金戒光明寺は知恩院と並ぶ、浄土宗の大本山である。
この2つのお寺は小高い丘の上にあり、戦略性に富んでいたこともあり、徳川家康は幕府を盤石なものにする為に、京都を直割地として二条城を作り所司代を置いたが、何かある時には軍隊が配置できるように黒谷と知恩院をそれとわからないような城構えとしていたという。

その家康の備えが、幕末になって京都の混乱を収めるため、京都守護職に抜擢された会津藩・松平容保にによって利用されている。
松平容保は幕末の京都の鎮静化のため1000名にも及ぶ藩兵の宿舎としてここに陣取っていることで証明されている。

その金戒光明寺に入るには、この高麗門を潜り抜ける。
この高麗門は、文禄・慶長の役が行われた1592年から1598年の間に造られ始めた城門である。
鏡柱と控柱を一つの大きな屋根に収める構造の薬医門を簡略化したもので、屋根を小ぶりにして守備側の死角を減らす工夫が施された。
このように、この門を置いただけでも、城塞化されていたのが分かる。

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金戒光明寺の駒札には、
金戒光明寺は、山号は紫雲山。本尊は阿弥陀如来。通称寺名をくろ谷さん(くろだにさん)と呼ぶ。知恩院とならぶ格式を誇る浄土宗の大本山の1つである・・・。とある。

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極楽橋、蓮池の駒札。
このお寺は、徳川家とかかわりがある。
春日局がお江のお墓を建立したり、三重塔を寄進したりしていること等からもわかる。

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山門のこの写真は、工事中の山門の前に張ってあった写真を写したものである。
中を見れなかったのは残念であるが、立派な門であることは確かなようだ。
出来上がったら、必ず見に行く予定にしている。

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境内と本堂。
本堂は御影堂といい、吉田寺の旧本尊と伝えられる「千手観音立像」を安置している。

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阿弥陀如来と龍の天井壁画。
慶長十年(1605年)豊臣秀頼により再建。当山諸堂宇中現存しているもので最も古い建物である。
恵心僧都最終の作、本尊阿弥陀如来が納められている。 如来の腹中に一代彫刻の使用器具が納められてあることから「おとめの如来」「ノミおさめ如来」と称されている。
また、他のお寺では、殆どが有料拝観となる、「龍の天井壁画」がいつでも見れるのはありがたい。

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熊谷直実の鎧掛の松。
直実の逸話として、以下のように伝えられている。
「一ノ谷の合戦」で、平家軍が源氏軍に押され敗走し始めた時、清盛の甥で平経盛の子、笛の名手でもあった平敦盛は、持ち出し忘れた愛用の横笛を取りに戻ったため退却船に乗り遅れてしまう。
敦盛は出船しはじめた退却船を目指し渚に馬を飛ばしますが、そこに源氏方の武将熊谷直実が通りがかり、
格式高い甲冑を身に着けた敦盛を目にすると、平家の有力武将であろうと踏んで一騎討ちを挑んだが、百戦錬磨の直実に敵うはずもなく、ほどなく捕らえられてしまった。
直実がいざ頸を討とうと組み伏せたその顔をよく見ると、元服間もない紅顔の若武者。名を尋ねて初めて、
数え年16歳の平敦盛であると知った。
同じ年の嫡男・直家をこの一ノ谷合戦で討死させたばかりの直実は、我が子の面影を重ね合わせ、この若武者を討つのをためらったが、これを見た同道の源氏諸将が訝しみはじめ、「次郎(直実)に二心あり。次郎もろとも討ち取らむ」との声が上がり始めたため、直実はやむを得ず敦盛の頸を討ち取ったのである。
これにより、世の無常を感じた直実は、ここ黒谷に法然上人を尋ね、方丈裏の池にて鎧を洗い出家した。

この時着ていた鎧をかけた松がこれである。(現在は二代目)

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浅井三姉妹のお江さんの供養塔と極楽橋

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修行僧で頭髪が伸びてしまった頭の大きさは一抱えほど。アフロの下に隠されたお顔は非常に穏やかなのだが、どうしてもそのフンワリモッコリとした頭に目がいってしまう。
これはれっきとした「五劫思惟像」と呼ばれる仏像である。
「五劫思惟」とは、阿弥陀如来が阿弥陀如来となる前に積んだ修行のこと。つまりこの修行の結果のアフロな仏様を表している。

非常に珍しい像だが、他のお寺でも見ることができる。が、その中でも特にこちらの五劫思惟像における、頭の立派さは有名である。
他のお寺のものより頭髪が異常に大きくて豊富なため、見応えは最高である。

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会津藩殉難者墓地。
松平容保が約1,000名の武士を連れて駐屯した地であり、ここには「鳥羽・伏見の戦い」で戦死した多くの武士が眠っている。

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八橋検校(やつはしけんこう)は、江戸時代初期の筝曲演奏家、作曲家で、京土産「八ツ橋」は、近世筝曲の開祖と呼ばれる「八橋検校」に由来している。
八橋検校は、ここ黒谷の金戒光明寺の塔頭・常光院に葬られている。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-09-10 23:19 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(0)