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【京都新町通り】をぶらり歩き

【京都新町通り】をぶらり歩き



「京都町屋通りの散策」という本を購入してみた。
普段気をとめずに通り過ぎていた通りに、さすが歴史の街であるという史跡が各所にあること分かった。
この本には事細かに史跡の箇所が載っている。
それではと、早速面白そうな通りを探してみると、新町通りが目に付いたので、歩いてみることにした。

四条新町通りを起点にスタート。
この通りは、祇園祭の山鉾巡行の岐路に当たるため、東西の電線が取り払われている。
実は地元の 通 はここで巡行を見ることを知っている。
というのは、山鉾はやっと通る幅しかないので、目の前で見ることができるからである。

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茶屋四郎次郎屋敷跡が載っている。

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「放下鉾保存会会所」
祇園祭の鉾の一つ。新町通り四条を上がってすぐ右手に「放下鉾保存会会所」がある。
鉾の名は真木(しんもく)のなかほどの「天王座」に放下僧の像を祀るのに由来している。
鉾頭は日・月・星三光が下界を照らす形を示し、その型が洲浜に似ているので別名「すはま鉾」とも呼ばれる。
かつては長刀鉾と同様「生稚児」であったが、昭和4年以降稚児人形にかえられている。稚児人形は久邇宮多嘉王殿下より三光丸と命名せられ、巡行の折には稚児と同様、鉾の上で稚児舞いができるように作られている。

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近くには林道春(羅山)の屋敷跡の駒札が立っている。
林羅山は江戸幕府創建の功労者で朱子学派儒学者。家康から家綱までの四代の将軍に仕え、豊臣家滅亡の原因となった、方広寺の鐘楼の銘文の首謀者でもある。
また、多くの門人が輩出した、後世の昌平坂学問所の基礎となった私塾を立ち上げている。

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その上の小路を東に入ると、マンションの隅に「南蛮寺跡」の駒札が見える。
京都の名所ともなった織豊(しょくほう)時代の四条坊門(京都市中京(なかぎょう)区)のキリシタンの教会をいう。
ザビエル以後、来日したイエズス会員は、日本の首都であり宗教界の中心でもあった京都に大教会を建てようと望んだが、妨害にあって容易に実現しえなかった。だがビレラは、四条坊門姥柳(うばやぎ)町、すなわち現在の蛸薬師(たこやくし)通りの北側、室町通りと新町通りの間に地所を入手でき、1575年(天正3)には、イタリア人司祭オルガンティーノが高山右近(うこん)ら信徒の協力のもとに壮麗な三階建てが建てられた。
この教会は「南蛮寺」の名で人々に知られた。

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以前、京都市中京区の新町通で蛸薬師を上がったところに、昔の御店(おたな)そのものの雰囲気を今に残していた松坂屋百貨店京都仕入店があったが、この京都仕入店は2010年8月末で閉鎖し、建物のその物が取り壊されていた。
京都の染織についての仕入れ、そして京都業務部染織デザイン研究所として現代の和服について研究も行っていたそうだが、その存在価値が薄れたこともあり、ここにはホテルが建てられることになったようだ。
このように歴史的文化遺産がなくなっていくのは寂しい限りである。

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その先の西側には、京都三井旧邸に三井クラブ?が建てられていた。
木碑のため、よく見ないと表示が判別しにくい。

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歴史のお好きな方は聞いたことがあると思われるが、この高松神明神社(高松殿)は、保元の乱の際、後白河天皇方の本拠地となったところで、ここに源義朝や平清盛が参集している。
なお、崇徳上皇方は白河北殿に源為義・為朝や平忠正が参集している。

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ここには、真田幸村の「知恵の地蔵尊」が祀られている。(九度山から拝領)

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新町通りの御池通り北側に、鍋島藩(肥前鹿島)屋敷跡の石碑があった。
渋谷の松涛にあった鍋島公園を思い出す。

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京都府庁舎の建設が議会で承認されたのは明治33年(1900年)のことで、翌34年11月に起工した。
それまで庁舎と一体ではなかった府議事堂を庁舎内に設けることが求められた。
また、外観はこれまでの和風建築とは異なる正統的な西洋建築の意匠が要求されたため、先に完成していた東京府庁舎(明治27年)や兵庫県庁舎(明治35年)を参考に、よりよいものを目指して設計された。
工期3年余、総事業費は当時では破格の約36万6千円を要して、明治37年12月20日に竣工し、地上2階建、延床面積約6,100平方メートルで、創建当時は正庁(庁舎の広間で公式行事や式典を執り行う室)・知事室・議場・貴賓応接室・議長室など大小55室で構成され、中庭は、西欧風の整形式庭園として、しだれ桜を中心に中高木が植えられている。
以後1世紀、旧本館は現在も、府庁のシンボルとして存在している。

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正面の入口付近には、京都議定書で有名な、「地球環境京都宣言」が掲げられている。

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京都林務事務所」がある。
街の中に存在しているのが何か違和感を感じる。

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その向かいに、「登録有形文化財」の旧家があった。
京都市は、歴史的価値のある建物などを、このような形で保存に努めているようだ。

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霊光殿天満宮。京都市上京区徳大寺殿町。
祭神 菅原道真・徳川家康
神徳 必勝祈願・国家鎮護

由緒
寛仁2年の創祀。後一条天皇の勅命により菅原道真の六世の孫である菅原定義もしくは義郷が、菅原氏の領地であった河内国若江郡の霊蹟に神殿を建てたことを始まりとする。後一条天皇により「霊光殿」の勅額と神嶺3ヶ庄が下賜され、その後京都へ遷座している。
社名の「霊光殿」とは、昌泰4年、道真が大宰府へ左遷される際に若江の地に立ち寄り、にわかに天から一条の霊光が差し込み、天一神と帝釈天が降臨して「菅公、汝に罪はあらず。不遇すれど落胆せず。3年後に汝天に召し上げ、汝の敵を滅ぼすべし」とのお告げがあった所以とされる。
弘安4年、元寇の際、後宇多天皇が霊光殿天満宮で夷賊退治の祈祷を行わせたところ敵船が嵐で壊滅し、『天下無敵必勝利運』の宸翰の額を天皇より賜った。応仁の乱の際、社殿が荒廃し、社領を失い、東寺境内に遷座した。
元亀元年、徳川家康が参拝し、鎧剣を奉納して天下泰平の願文を納めた。元和2年、家康は跡が途絶えていた祠官の若江家を再興し、塔之段に社殿を再建した。寛永13年、徳川家光は仙洞御所にあった家康の像を移し、祭神とする。宝暦11年、現在地に鎮座する。
天保11年、安政4年と火災のたびに禁中より援助で社殿を再建、禁祀御祈祷所と定められる。現在の社殿は明治5年、近衛家の旧鎮守社を移築したものである。
新町通を今出川から下がったところ、住宅街の真ん中に霊光殿天満宮がある。

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白峰神社。別途9月に掲載の【悲劇の崇徳上皇と【白峰神宮】とは。】をご参照のこと。蹴鞠の碑。「崇徳天皇欽迎の碑」も。

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報恩寺
前身は定かではないが、室町時代中期までは八宗兼学の寺院として一条高倉付近にあったようだ。後柏原天皇の勅旨で、1501年(文亀1)慶誉が再興、浄土宗寺院となる。
天正年間(1573~92)現在地に移った。
豊臣秀吉が寺宝の虎の図を聚楽第に持ち帰ったが、夜毎吠えて眠れず、寺に返したという「鳴虎図」がある。
門前の石橋は秀吉の侍尼・仁舜尼の寄進で、擬宝珠に慶長七年の銘がある。
重文の梵鐘は平安時代末期の作で撞かずの鐘という。
客殿に黒田長政が死去した部屋もある。
また、観世流家元歴代や、志野流香道家元蜂谷家歴代の菩提寺で、仁舜尼や福山藩祖の阿部正勝等の墓碑を併祠している。

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持明院仙洞御所跡
鎮守府将軍を務めた藤原基頼が邸内に「安楽光院」と呼ばれる持仏堂を創設し、後にこれを「持明院」と名づけたことから、この家系を持明院家と称することとなった。
鎌倉時代、持明院基家の娘陳子(後の北白川院)は守貞親王の妃になり、茂仁親王(後堀河天皇)を生んだ。
承久の乱後、後堀河天皇が即位して、父親の守貞親王には太上天皇の尊号がおくられ、後高倉院と称してここで院政を行った。
続いて後堀河天皇の退位後にもここを御所として院政を行った。
その後も後嵯峨天皇・後深草天皇が退位後の御所に定められたことから、後深草天皇の系統を後に持明院統(北朝)と称し、大覚寺統(南朝)と皇位継承で争った。
持明院は、文和2年(1353)2月に火事で焼失し、以後荒廃して応仁の乱後に光照院が移転したと云う。

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以上、2km程度の間に色んな発見があった。
これからも続けて生きたいと思っている。








この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-10-08 14:56 | (風情)京都・関西 | Comments(4)

Commented by toshi at 2012-10-26 07:41 x
「京都町屋通りの散策」を amazonで探しましたが見付かりませんでした
新町通りを歩いたことは有りますが 殆ど見落としています 京都の町歩きは 矢張り勉強してから歩かないと 肝心なものを通り過ぎてしまいますね
茶屋四郎次郎邸は 記憶にありますが 立札だけで確か非公開だった様な...

思い立ったら 直ぐ歩ける拓さんが羨ましい...
 
Commented by mo-taku3 at 2012-10-26 21:55
まず本ですが、「京の町家小路散歩」(大人の遠足BOOK西日本―5)【JTBパブリッシング】です。私も京都で調べてみます。
さて、茶屋も南蛮寺も立札だけで、今や面影があるのがほとんどなくなっているのが残念です。
Commented by toshi at 2012-10-26 23:34 x
在りました amazonで買いました
有難うございます しっかり勉強しますよ
Commented by mo-taku3 at 2012-10-27 21:52
何か発見があったら教えてください。