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京都霊光殿天満宮

京都霊光殿天満宮



霊光殿天満宮は、「老松神」と呼ばれた菅原道真公の6代目の子孫・菅原定義公によって祀られた神社で、「霊光殿」という名前の由来は、『901(昌泰4)年に菅原道真公が大宰府に左遷された際、俄かに天から一条の霊光が差し込み、その光とともに天一神(大乗仏教でいう十二神将の主将である方角神)と帝釈天が降臨して「菅公よ、汝には罪はない。左遷されても落ち込むことはない。3年後には汝を天に召し、策を弄して汝を陥れた政敵どもを悉く滅ぼしてあげよう」と告げていったというエピソードから名付けられたといわれている。』

この霊光が差し込んだ場所が菅公の所領地があったといわれる河内国若江(現在の東大阪市)の地で、社伝によると1018(寛仁2)年に後一條天皇の勅命を受けた菅原定義公が社殿を建立したとありる。
ゆかりのある土地であったが故に、菅原道真公との繋がりをより深いものにしたいという思いから、当時起こったであろう自然現象を「霊光伝説」として語り継いで神社の名前にしたと考えられる。
後に、霊光殿天満宮は若江の地から京都へと遷座された。
残念ながら応仁の乱の際には戦火に遭って社殿や社領はすっかり荒廃してしまい、御神体も東寺に遷されて難を逃れている。
その神徳は引き続き広く知られていたようで、1570(元亀元)年には徳川家康公によって鎧剣が奉納され、天下泰平の願文も納められている。
27歳の若き徳川家康公は、三河国を完全に掌握して三河守の叙任を受け、今川氏真公を追いやって遠江国の大半を制覇した時期で、この祈願が効いたのか家運の開けた徳川家康公によって深く信仰され、手厚い庇護を受けることになった。

代々霊光殿天満宮の祠官を務めていた若江家は、江戸時代には家系が絶えていたが1616(元和2)年に幕府の手で再興されて再び祠官の任に着いている。
1636(寛永13)年には若江家の再興に尽力したということで徳川家康公が合祀された。現在地に遷されたのは1761(宝暦11)年。霊光殿天満宮は皇室からも厚い崇敬を受け、1840(天保11)年と1858(安政4年)に社殿が修築されたときには、禁中より寄付をうけ、禁祀御祈祷所と定められた。
現在境内に鎮座する社殿は、1872(明治5)年に近衛家の旧鎮守社の社殿を拝領したものだそうである。

実はこの小さな神社を取り上げたのは、鳥居に掲げられている額に「天下無敵 必勝利運」という勇ましい言葉が掲げられ、それに興味を持ったことである。

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所在地
京都府京都市上京区新町通今出川下ル徳大寺殿町
主祭神
 菅原道真
 徳川家康
社格等 村社
創建 寛仁2年(1018年)








この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-11-11 23:09 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)

Commented by toshi at 2012-11-13 07:58 x
菅家の社を色々ご紹介いただいて 京都の菅原信仰の広さ深さを再認識しました 平安時代の仏教は鎮護国家宗教ですから 個人を祭ることは それだけ菅家が大きな勢力であったということなのでしょうか
Commented by mo-taku3 at 2012-11-14 14:07
菅家は母親が大伴家の出です。
当時は未だ藤原家の勢力が定着できてないこともあり、宇多天皇の信任により右大臣まで上り詰めたまれに見る才能の持ち主といわれています。
とにかく芽が出そうな人材はことごとく潰された時代ですから、ご他聞にもれず、左大臣藤原時平の讒言により失脚しています。
当時は藤原氏以外は重用されなかったのでしょう。
だから、反藤原の非難を集めた個人崇拝だったのではないかと思います。