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嵐電沿線の神社・仏閣

嵐電沿線の神社・仏閣


大宮・嵐山・北野白梅町を結ぶ嵐電沿線には寺社・仏閣が沢山存在する。
どちらかというと平安京の西の方角は、離宮や小庵が営まれている。
今回は嵐山・太秦近辺を載せてみたいと思う。


●「京都嵐山【櫟谷宗像神社(いちたにむなかた神社)】
京都市西京区嵐山中尾下町61(渡月小橋南詰西へすぐ)

松尾大社の境外摂社で、御祭神は奥津島姫命と市杵島姫命とし、古くから俗にいう嵐山弁天社と称し、奈良時代大宝年間より鎮座されている名社です。
平安時代、葛野(かどの)に鋳銭所(今の造幣局)があり、新しい鋳銭が奉納されたことから財運向上の神様、福徳財宝の神としの信仰も厚い。
また、河海の女神でることから水難の守護神ともされています。
古来、風光明媚の名勝嵐山に訪れる多くのひとが詣でた神社です。
また、この櫟谷宗像神社はほんとに小さな神社ですが、松尾大社の還幸祭には、必ず子供神輿は奉納にいきます。また、モンキーパークの入り口にもなっています。

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●大悲閣(千光寺)


正しくは、嵐山大悲閣千光寺(せんこうじ)と号する禅宗の寺である。  
慶長19年(1614)角倉了以(すみのくらりょうい)が、二尊院の僧、道空了椿(どうくうりょうちん)を中興開山に請じて建立した寺院である。了以は、我国民間貿易の創始者として、南方諸国と交易し、海外文化の輸入に功績をたてた人物で、国内においては、保津川、富士川、天龍川、高瀬川等の大小河川を開鑿(かいさく)し、舟運の便益に貢献した。晩年は、この地に隠棲し、開鑿工事に関係した人々の菩提を弔うため、この寺を建てたといわれている。  本堂には、了以の念持仏であった本尊の千手観音像及び法衣姿の木像了以像を安置している。  境内には、了以の子、素庵(そあん)が建立した林羅山(はやしらざん)の撰文による了以の顕彰碑や夢窓国師(むそうこくし)の座禅石と伝える大きな石がある。

訪ねたときは、丁度改修中ではいることはできなかったのは残念だった。がまた訪れてみたいと思っている。

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●鹿王院(ろくおういん)

右京区嵯峨北堀町。足利義満が1379年(康暦1)建立した宝幢寺の塔頭である。本寺は衰微し、この一院だけ残った。臨済宗の単立寺院。本尊釈迦如来及び十大弟子は運慶作と伝える。回廊で結ばれた諸堂の間に枯山水の庭がひろがり、仏舎利を収めた舎利殿がある。絹本着色夢窓国師像2幅(重文)など多くの文化財を所蔵している。
枯山水の広々とした庭は、日本最初の平庭式の枯山水庭園といわれている。

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●車折神社(くるまさきじんじゃ)

車折神社(くるまざきじんじゃ)は平安時代後期の学者、清原頼業を祀る。
後嵯峨天皇が社前を通りかかった際に、御車のかなえが折れ、神意を畏れてこの名がついたらしい。
また、5月第3日曜日に大堰川(おおいがわ)で王朝の船遊びを再現する三船祭で知られる。
商売繁盛の神様であるが初詣や祭、結婚式などがない普段は、参拝客や観光客もまばらである。

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境内にある芸能神社は芸事の神様として知られる珍しい神社である。
社殿の内側には、演歌歌手のステッカーや芸能関係者の名刺や札がびっしりと貼り付けられており、芸能神社周辺の玉垣には、有名タレントや歌舞伎役者、日本舞踊、宝塚歌劇などの人の名が記されており、現役芸能人の名前も載っている。

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●斎宮神社(さいぐうじんじゃ)

有栖(ありす)川の西に位置する斎宮神社(さいぐうじんじゃ)は、伊勢神宮に奉仕した斎宮ゆかりの野宮(ののみや)旧跡といわれている。
斎宮とは、斎王の御所を意味し、平安時代以降は、斎王自身のことも指すようになった。
祭神は天照大神。厄除け開運、婦女子の血の道の守護などの信仰がある。
斎王とは、伊勢神宮の天照大神に御杖代(みつえしろ、神の意を受ける依代)として奉仕した未婚の内親王か女王のことをいう。
伝承では、垂仁(すいにん)天皇の代(B.C.29? - A.D.70?)の、倭姫命(やまとひめのみこと)に始まったという。実質的には、天武天皇(670)の娘・大来皇女(おおくのこうじょ)から、後醍醐天皇の代(1330頃)まで、660年間に60人余りの斎王が生まれている。
天皇の即位とともに、斎王に卜定(ぼくじょう)された未婚の内親王か女王は、大内裏の斎所である初斎院(しょさいいん)で1年間の潔斎をした。その後、野宮で1、2年の精進潔斎生活を送り、伊勢の斎宮寮へ向かったとされている。

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●広隆寺(こうりゅうじ)

真言宗御室派の寺院で、山号を蜂岡山です。蜂岡寺(はちおかでら、ほうこうじ)、秦公寺(はたのきみでら)、太秦寺などの別称があり、帰化人系の氏族である秦氏の氏寺であり、平安京遷都以前から存在した、京都最古の寺院といわれている。
広隆寺は、古くは蜂岡寺、秦寺、秦公寺、葛野寺、太秦寺など、さまざまな名称で呼ばれた。
もっとも古い呼称は蜂岡寺で、推古天皇11年(603)に建立された山城最古の寺であるとされている。
寺伝は、蜂岡寺を聖徳太子が在世中に建立した七大寺の一つとしている。
太子建立の七大寺とは、1.法隆寺(法隆学問寺)、2.四天王寺、3.中宮寺(中宮尼寺)、4.橘寺、5.蜂岡寺(広隆寺)、6.池後寺(池後尼寺、法起寺)および7.葛木寺(葛城尼寺)をいう。

京都にある有名社寺で、広隆寺のように寺の草創が確定していない寺院は珍しい。
『日本書紀』に広隆寺草創に関わる記述があり、発掘調査の結果からも草創が7世紀にさかのぼる古寺であることは確かだが、弘仁9年(818年)の火災で古記録を失ったこともあり、初期の歴史は必ずしも明確ではない。
『日本書紀』によれば、推古天皇11年(603年)、聖徳太子が「私は尊い仏像を持っている。誰か祀る者はいないか」と諸臣に尋ねたところ、秦河勝が進み出て、仏像を戴き、蜂岡寺(広隆寺の古称)を造ったとされている。
一方、承和5年(838年)成立の『広隆寺縁起』や9世紀後半成立の『広隆寺資材交替実録帳』には、広隆寺は推古天皇30年(622年)、同年に死去した聖徳太子の供養のために建立されたとあります。『日本書紀』と『広隆寺縁起』とでは創建年に関して20年近い開きがあります。これについては、寺は 603年に草創され、622年に至って完成したとする解釈と、603年に建てられた『蜂岡寺』と622年に建てられた『広隆寺』という別々の寺院が後に合併したとする解釈がある。
しかし広隆寺の前身は蜂岡寺であったとしているのが、今日の定説です。

なににはともあれ、ここには秦河勝が聖徳太子から貰い受けたとされる、国宝第一号に指定された像高2尺8寸の宝冠弥勒木造(通称;弥勒菩薩)があることで有名で、奈良中宮寺の弥勒菩薩とともに、大勢の観光客が訪れる。

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まだ、沢山の寺社が存在している。
今後とも載せて行く予定でいる。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-12-14 09:48 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(9)

Commented by toshi at 2012-12-18 07:52 x
広隆寺以外は 門前を通り過ぎた寺社ばかりです 一社ずつ掲載商会してください 纏めて掲載は勿体ないです 上賀茂 下鴨 そしてこの広隆寺と 帰化人の足跡が多いのは 平安京に置いても渡来人の影響が大きかったよ云うことなのでしょうね
Commented by mo-taku3 at 2012-12-18 22:11
回ったお寺はメジャー、マイナー両方があります。
今回載せていて、広隆寺がメジャーで次が車折神社、鹿王院でしょうか。
できるだけご希望に沿うようにします。
書いてる内に調べていなかったことの気付きがありまた出かける意欲が出ると思います。
Commented by kuma at 2012-12-19 00:18 x
京都文化博物館に以前は京都の歴史コーナーがありました。ここに京都は大きな沼地で、土豪が帰化人から干拓の技術を得て徐々に広がったと紹介されてました。京都の人もほとんど知らないコーナーでしたのでリニューアルの時に撤去されてしまいました。京都の山際のお寺に朝鮮系のお寺が多いのもそういうことかと思いました。
Commented by mo-taku3 at 2012-12-19 23:00
熊川君、朝鮮系のお寺はどんなのがあるか教えてくれますか。
多分歴史を感じることができるのではないか楽しみです。
Commented by kuma at 2012-12-20 00:51 x
東山方面でブラブラしている時に見かけたので名前を覚えてません。韓国の提灯のような飾りがあって、友人に聞いたら韓国系のお寺だと思うと言われたのでそう理解してます。京都は秦氏が渡来人一族として発展に寄与し、京都滋賀の有名な神社は秦氏によるとの説があります。秦氏は中国とかユダヤとかなっていますが、朝鮮から逃れてきたとの説が当時の渡来ルートとしては妥当と思っています。
Commented by mo-taku3 at 2012-12-20 14:39
もし何か分かったら教えてください。
Commented by kuma at 2012-12-21 00:15 x
webで“朝鮮寺 京都”と検索するといろいろ出てきます。僕は朝鮮人を見下す風潮があった時代に育ったのですが、朝鮮人に対する偏見が全くないので面白く読めますが。文化文明がどこから来たかは先を見て行けばきりがないですが、多くは朝鮮半島から争いを避けて来た百済人が伝えたものではないかと。アジアというよりモンゴロイドの種族の中で考えれば南米まで同じ民族と思ってしまいます。
Commented by mo-taku3 at 2012-12-21 12:26
なるほど。
私も韓流歴史ドラマをほぼ全部見て、朝鮮氏の調査もしてみました。
中国の商の時代の宰相「箕子」は朝鮮民族だったことなどがわかり、隋・唐と高句麗の戦いの根本原因「領土問題」が存在しているのもわかりました。
今の北朝鮮が中国・韓国の緩衝地帯になっていることの必然性などもなるほどという感じです。
話せば色々長くなりますが、いずれ調査した歴史資料も載せてみたいと思ってます。
Commented by kuma at 2012-12-22 23:53 x
楽しみにしています。