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朝鮮国家の歴史【②高句麗-その1】について

朝鮮国家の歴史【②高句麗-その1】について


韓流時代劇ドラマ「朱蒙(チュモン)」をご覧になった方も多いと思うが、かなり史実に近い形で描かれているようだ。


【序章】

さて、高句麗(こうくり、紀元前37年頃 - 668年)は扶余系民族による国家といわれ、最盛期は中国大陸東北部(満州南部)から朝鮮半島の大部分を領土としていたらしい。現在でも遼東半島から満州南部にかけて朝鮮族が多数分布している。
高句麗はかなりの武力を有していたらしく、隋の煬帝、唐の太宗による遠征を何度も撃退してきたが、最終的には唐と新羅の連合軍により滅ぼされている。
【高句麗】は、日本では朝鮮史として存在しているが、中国が高句麗は中国史の中に取り入れる動きがあり、すでに中国の歴史学会では公認されている状態である。
さてその内容について少し解説をしておきたい。

『高句麗の歴史帰属をめぐる問題』について
後継となる渤海と同じように、韓国と中国との間で高句麗史はどちらの歴史に帰属するかについて論争が起きている(北朝鮮も参加しているが韓国ほどには積極的ではない)。
中国歴代王朝の史書では、高句麗は数千年間外国として記載されていた。
しかし近代になって1980年代頃までは高句麗の歴史は中国史でもあり、朝鮮史でもあるという「一史両用論」が中国の歴史学会では主流となった。
その後1980年代頃から、中国の歴史学会では「一史両用論」が更に進み、高句麗は中国の歴代政権に服属してきた地方政権であり、中国の歴史であると主張し始め、2002年には中国社会科学院が中国東北部の少数民族の歴史研究プロジェクト「東北工程」を本格的に開始し、2003年末頃から「高句麗が中国の一部であり自国の地方政権である」との中国見解が中国国外に知れ渡ることになった。
中国側から言えば実証できる古朝鮮の衛氏朝鮮が中国の燕 (春秋)の者が造った国家であり、それを「前漢」が滅ぼして楽浪郡などの漢四郡を設置したとしている。

これに対して韓国は激しく反発し、外交問題に発展しかけた。
高句麗は満州と朝鮮半島北部を領有した国家であり、高句麗人の多くは後に朝鮮人を形成する母体となったこと、満州が漢民族化したのは清朝中期以降であることから中国の政権とするには不適当だという意見が韓国などの見方である。

日本の学会では高句麗・渤海史は朝鮮史であるが、中国史とは言いがたいとする意見が主流である。
日韓併合時代に日本で発刊になった教科書と朝鮮史官撰史料等にも、高句麗は朝鮮の歴史として記録されている。
一方で、現代とは民族分布が異なる上に一民族一国家という意識が希薄だった古代国家を、直接近現代の国民国家に結びつけるのは不適当でもあり、そのため厳密に言えばどちらの国の歴史でもあり、厳密に確定することは不可能であるという意見や、今後は開かれた歴史認識を持ち、一国史観を脱皮して東アジア史として捉えていく可能性も唱えられている。

皆さんは以上をどのように解釈されるでしょうか?
さて、序章が長くなったが、以下に『高句麗』ついて述べよう。


【本章】(高句麗の歴史)

『国名』について
中原高句麗碑などの碑文によれば5世紀中頃には「高麗」と自称していたことが書かれている。
中国の王朝がこの自称を公認したのは520年が最初であることが、歴代正史の冊封記事から明らかになっている。
以後は「高麗」が正式名称として認められていたので、中国・日本の史書において高句麗が高麗と表記される例があるのはそのためである。
現在は、「高麗」の正式名を使わず「高句麗」の旧称を用いるが、これは後の高麗(王氏)と区別するためで、『三国史記』から始まる表現である。


『高句麗の歴史』について
紀元前1世紀中頃には漢の支配が弱まり、扶余系貊族の高句麗勢力が現在の集安市付近で勃興して勢力を増してきた。
この高句麗を形成した扶余系民族とは、中朝国境をはさむ山岳地帯で農耕を主とし、その他に牧畜・狩猟を生業としていた民族とみられる。(日本人にもこの血がながれているといっていいだろう。)

(建国神話)
『三国史記』によれば、高句麗は紀元前37年に朱蒙(チュモン)により建てられたとされる。
朱蒙の母(ユファ)は河の神の娘で天帝の子と出会って結ばれるが、父の怒りを買って東扶余王の金蛙の所へ送られた。
やがて娘は太陽の光を浴びて身篭り、卵を産んだ。この卵を金蛙は動物に食べさせようとしたが動物はこの卵を守り、卵から朱蒙が産まれる。
朱蒙は生まれた時から非常に弓が上手く(朱蒙というのは弓の名手のこと)、これに嫉妬した金蛙の息子たちは朱蒙を殺そうとするが、朱蒙は母のしらせで脱出し、卒本州に至り、ここで高句麗を建てたという。
広開土王碑にもほぼ同じ内容が書かれている。
(これは、神武天皇と崇神天皇とのことを記した「日本書紀」に似ている?)

(卒本城時期)
朱蒙が建国したとされる卒本の地は、現在の遼寧省本渓市桓仁満族自治県(吉林省との省境近くの鴨緑江の少し北)であり、都城の卒本城は五女山山城に比定されている。
しかし、建国後まもなく西暦3年には、第2代の瑠璃明王が鴨緑江岸の丸都城(尉那巌城)へ遷都した、と伝えられる。
高句麗の本拠地が実質的に丸都城へ移った時期は、2世紀末から3世紀初めにかけてだと見られているようだ。

(丸都城時期)
丸都城は吉林省集安市(かつての玄菟郡配下の高句麗県)の山城である。
その後、山を下りて平地の国内城に王宮を構えたが、山城の丸都城と平城の国内城とは一体のものであり、こうした山城と平城(居城)との組み合わせは、朝鮮半島における城のあり方として普遍的なものとなっていった。
国内城については最近の考古学的研究により、3世紀初めの築造と見られている。
高句麗は次第に四方に勢力を延ばし、とくに遼東方面への進出に積極的であり、玄菟郡をさらに西に追いやった。
後漢の統制力が黄巾の乱により弛るむと、遼東には公孫氏が自立するようになり、高句麗と対立した。
197年に第9代の故国川王が死んだ後、王位継承をめぐって発岐と延優(後の10代山上王)との間に争いが起こり、卒本に拠った発岐は公孫度を頼って延優と対立したが、丸都城に拠った延優が王となって発岐の勢力を併呑した。
公孫氏が魏の司馬懿に滅ぼされた後は、魏と国境を接して対立するようになり、魏の将軍毌丘倹により246年に首都を陥落させられた。
東川王は東に逃れ、魏軍が引き上げた後に首都を再興した。
このときに築城された都を平壌城というが、丸都城の別名または集安市付近の域名と考えられており、後の平壌城とは別のものである。
その後も遼東半島への進出を目指し、西晋の八王の乱・五胡の進入などの混乱に乗じて312年に楽浪郡を滅ぼし、更にこの地にいた漢人を登用する事で文化的、制度的な発展も遂げた。
しかし、遼西に前燕を建国した鮮卑慕容部の慕容皝に首都を落され、臣従せざるを得なくなった。
355年には初めて前燕から〈征東将軍・営州刺史・楽浪公・高句麗王〉に冊封され、中国の国家が朝鮮諸王を冊封する態勢の嚆矢となった。
前燕が前秦に滅ぼされると引き続いて前秦に臣従し、372年には僧侶・仏典・仏像などを伝えられた。この間、371年には百済の攻撃に王が戦死するなど危機に直面する。

391年に即位した19代広開土王(好太王)は後燕と戦って遼東に勢力を伸ばし、南に百済を討って一時は首都漢城(現ソウル特別市)のすぐ傍まで迫り、百済王に臣従を誓わせた。
このころ倭の朝鮮半島への進出が顕著となる。
391年、倭が海を渡り百済・新羅を破り臣民とした。
393年、倭が新羅の都を包囲するなど、たびたび倭が新羅に攻め込む様子が記録されている。
いったん高句麗に従属した百済であるが、397年、百済が阿シン王の王子腆支を人質として倭国に送り国交を結すび、399年、百済は高句麗との誓いを違えて倭と通交し、倭の侵攻を受けた新羅は高句麗に救援を求めてきた。このため広開土王は新羅救援軍の派遣を決定する。
400年、高句麗軍が新羅に入ると、新羅の王都に倭軍が満ちていたが、任那・加羅に退いたため高句麗軍はこれを追撃した。このとき新羅は高句麗に対する朝貢国となった。
しかし、402年、新羅も倭国に奈忽王の子未斯欣を人質に送り国交を結すび、404年になると高句麗領帯方郡まで倭に攻め込まれている。
405年、倭国に人質となっていた百済王子の腆支が、倭国の護衛により帰国し、百済王として即位している。
5世紀、長寿王の時代には朝鮮半島の大部分から遼河以東まで勢力圏を拡大し、当初高句麗系の高雲を天王としていた北燕と親善関係を結ぶことにより遼西地方にも進出を果たしたようだ。
この時代には領域を朝鮮半島の南方にも拡げ、平壌城に遷都している。

(平壌城時期)
長寿王は西へ進出して遼河以東を完全に勢力下として手に入れた。
更に475年には百済の首都を陥落させて百済王を殺害し、百済は南に遷都した。
この時期には遼東半島、朝鮮半島の半ば、満州と、最大領土を支配するに至り、高句麗の最盛期とされる。
しかし5世紀末になると盟下にいた新羅勢力が強くなり、百済と新羅の連合勢力により領土を大幅に削られる。
危機感を覚えた高句麗は百済に接近し、中国には南北朝の両方に朝貢を行って友好を保ち、新羅との対立を深めていく。
この頃の高句麗が最も危惧していたのは北朝の勢力であり、その牽制のために南朝や遊牧民族・突厥などとも手を結ぶ戦略を採っていた。
中国で北朝系の隋が陳を滅ぼして全土を平定すると、高句麗は隋に対抗するために突厥と結んだ。
そのために隋からの4次にわたる遠征を受けるが、全て撃退し、却って隋の滅亡の原因を作った(このときの英雄が乙支文徳(ウイチムンドク)である)。
隋が倒れて唐が興ると、今度は唐から遠征を受けることとなった。これに備えて淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)はクーデターを起こして宝蔵王を擁立し、軍国主義的政権によって唐の侵略に対抗した。
唐の太宗による2回の遠征、さらに高宗期の3回の遠征も撃退し、唐と争いながら百済と結んで新羅を攻めた。
新羅と同盟関係にあった唐は高句麗討伐の為に再度兵を起こし、660年に高句麗と友好関係にあった百済を滅ぼした。
さらに663年白村江の戦いで百済残存勢力が事実上壊滅したため、高句麗は孤立した。
高句麗の淵蓋蘇文の死後に子らの間で内紛を生じると、それに乗じて唐・新羅は連合して高句麗の都の平壌を攻め、668年に宝蔵王らは投降して、ここに高句麗は滅んだ。

(滅亡後)
高句麗の遺民は宝蔵王の庶子(あるいは淵蓋蘇文の甥ともいう)の安勝を担いで新羅に入り、新羅から高句麗王(後に報徳王)として冊封され、新羅内で684年まで命脈を保った。
また、後高句麗として渤海国及び高麗(王氏)に繋がっていくことになる。

高句麗の遺民の一部には日本へ逃れた者もいる。例えば、武蔵国高麗郡(現在の埼玉県日高市・飯能市)は高句麗の遺民たちが住んだところと言われており、高麗神社・高麗川などの名にその名残を留めている。


『高句麗の文化』について
高句麗の文化は石の文化だといわれる。
石で築かれた墓(積石塚)と石で築かれた山城が代表的である。
高句麗の山城は近年、中国や北朝鮮で大量に発見されており、また、積石塚は高句麗前期の墓制で、後期には土塚即ち横穴式石室をもつ封土墳に移行した。
高句麗墓の特徴として華麗な古墳壁画が挙げられる。
起源は中国の古墳壁画が起源とされているが、すでに前期古墳にもみられるものであり、高句麗独自の風俗や文化を後世に伝えるものとして重要視されている。
前期古墳については中国吉林省集安市付近のものが「高句麗前期の都城と古墳」として、後期古墳については朝鮮民主主義人民共和国平壌市・南浦特級市付近のものが「高句麗の古墳遺跡」として、それぞれ世界文化遺産に登録されている。

朝鮮半島国家では最も早く仏教を受容し、『三国史記』高句麗本紀では小獣林王の5年(375年)に肖門寺・伊弗蘭寺を創建して順道・阿道らの僧を配したことが朝鮮での仏教の始まりとされている。
既に東晋の僧・支遁(366年没)が高句麗僧に書を送ったことが伝えられており、小獣林王の仏教受容については国家的な取り組みであったようだ。
広開土王の時代(5世紀初頭)には平壌に9ヶ寺の建立が進められた。高句麗の仏教は老荘思想を媒介として、神仙信仰と習合していたと見られている。
神仙信仰はその後、6世紀頃からは道教として支配者層に広まっていったことが、古墳壁画に仙人・天女の描かれることからも伺える。
栄留王の7年(624年)には唐に願い出て、『道徳経』などを下賜されるとともに道士を派遣してもらい、高句麗の国内で道教の講義を開きもしている。また、仏教寺院を道観に転じることもあった。


『日本との関係』について
長野県には大室古墳群や針塚古墳に代表されるように、5世紀から6世紀にかけての高句麗式積石塚が多数分布し、東京都狛江市の亀塚古墳も高句麗式とされる。また狛、巨麻の古代地名は以下の例のように日本各地に分布する。
・甲斐国巨麻郡(現在の山梨県巨摩地域)
・武蔵国多磨郡狛江郷(現在の東京都狛江市周辺)
・河内国大県郡巨麻郷
・河内国若江郡巨麻郷
・山城国相楽郡大狛郷、下狛郷
4世紀末から5世紀にかけて倭国(日本)と高句麗は敵対関係にあったので、当時の高句麗人が自発的に移住してきたのか戦争捕虜であったのかは不明である。
しかし、6世紀になって百済と高句麗の関係が改善するにつれて倭国と高句麗との関係も友好的なものとなり、相互の通好も行われた。
570年に北陸に漂流した高句麗人が「烏羽之表」を携えており、これが正式な国書であると王辰爾によって解読され、初めて国交が開かれたと伝えられる。
7世紀前半までの高句麗と日本との国交は文化的な交流に限定されており、特に仏僧の活躍が目立つ。595年に訪れて後に聖徳太子の師となった恵慈、610年に訪れて顔料や紙墨を伝えた曇徴は有名である。
7世紀後半には文化交流に留まらず、淵蓋蘇文のクーデターを伝えるなど、政治的な関わりをもつようになった。
668年に高句麗が滅亡すると倭国に亡命してきた高句麗人もあり、716年には武蔵国に高麗郡が建郡された。
高麗郡大領となる高麗若光には705年に王(こきし)の姓が贈られており、高句麗王族であろうとされる。高麗郡高麗郷の地である埼玉県日高市にはこの高麗王若光を祭る高麗神社が今も鎮座する。
ほかにも『新撰姓氏録』には以下のような高句麗系氏族が見られる。
・狛人…高麗国須牟祁王の後(河内国未定雑姓)
・狛造…高麗国主夫連王より出(山城国諸蕃)
・狛首…高麗国人安岡上王の後(右京諸蕃)
・狛染部…高麗国須牟祁王の後(河内国未定雑姓)
・大狛連…高麗国溢士福貴王の後(河内国諸蕃)
・大狛連…高麗国人伊斯沙礼斯の後(和泉国諸蕃)

高句麗とは以上のような関係となるが、渤海国との付き合いはより親密であり、ここには菅原道真が関係しているのも何かを感じさせる。

(この文章は、いくつかの資料を参考に編集しなおしたものです。)





この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-01-04 20:17 | (歴史)世界史 | Comments(3)

Commented by toshi at 2013-01-09 06:39 x
最近訪問された上賀茂神社の近くに 高麗美術館が有りますね
是非一度 お訪ね下さい 参考になると思いますよ
Commented by mo-taku3 at 2013-01-09 23:53
探してみます。
Commented by mo-taku3 at 2013-01-14 23:32
場所は分かりましたので今度行ってみます。