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朝鮮国家の歴史【④百済】について

朝鮮国家の歴史【④百済】について


『百済の歴史』
三国史記百済王の伝記には百済が1つの国のように記録されていますが、百済は沸流(ピリュ)、温祚(オンジョ)、仇台(クテ)が建国した3つの国の名称です。それぞれの国を区別して、沸流百済、温祚百済、仇台百済と呼ばれています。

(沸流百済)
韓流ドラマ「朱蒙」でおなじみの、召西奴(ソソノ)は父、延陀勃(ヨンタバル)と息子、沸流(ピリュ)、温祚(オンジョ)とともに卒本で生活をしていました。
B.C 42年に渾江に沿って下流に降り、湏水・帯水地域に定着をして、魚取りと塩商売などで多くの財物を集め、B.C 31年に高朱蒙の王妃になりました。
その後、高朱蒙は、檀君6世高無胥の娘の禮との間に、北扶余にいた時に生まれた瑠璃を太子としました。
沸流は、自身が実の子ではないとしても、高朱蒙を父親のように育てられてきた長子である自分を太子に定めず、瑠璃を太子にしたことに不満を持ち、壬寅年(B.C 19年)に高朱蒙の死後、沸流は湏水・帯水地域で自ら帝位に上がり、沸流は高句麗の正統性が長子である自分にあるという意味で自身を伯帝と称しました。
しかし、誰も、沸流に従わず、沸流は根拠地である湏水・帯水地域だけを治めました。
その後A.D 14年に高句麗が西の方に軍隊を送り、太子河中上流方面にあった梁貊と、遼梁の西の方にあった玄菟郡高句麗県を占領し、遼東半島全地域に勢力を拡大すると、A.D 19年に沸流百済地域に住んでいた民衆は高句麗に逃れ、湏水・帯水地域は民がいなくなりました。
沸流は韓半島に根拠地を整えようと民衆を率いて韓半島に移動して, 彌鄒忽(三国遺事には「今仁州」と記されている)に一時定着しました。
しかし、この時は温祚が洪城(ホンソン) 馬韓を滅亡させて、以前の馬韓地域を掌握しながら、沸流の定着を認めなかったため、沸流は死に、民たちは、慰礼城に行き温祚のもとに亡命しました。
これが沸流百済の言い伝えです。

(温祚百済)
沸流がB.C 19年に湏水・帯水地域で自ら帝位に上がった時に、誰も沸流に従わないのを見て、温祚は将来を危ぶみB.C 18年に、民を従え、船に乗り、韓半島に移動し、国を建て、国の名前を、全て(オン)の世の中を治める王という意味の温祚と称しました。
都の名は、天帝の息子がいる城という意味の慰礼城と定めました。
慰は空にある日すなわち天帝を意味し、礼は扶余の民を意味します。
温祚は天帝の息子を象徴する字として「慰」を使い、百済とせず、温祚と呼んだということは兄沸流が呼んだ百済という呼び名を嫌ったと思われます。
温祚国の慰礼城は、B.C 6年に江原道地方の楽浪より送られた5虎によって占領されました。
慰礼城が占領されることにより、温祚は漢江(ハンガン)の南に逃げました。
この時、切迫した温祚は、当時漢江以南地方を治めていた洪城(ホンソン)馬韓を訪ねて行き、馬韓の諸侯として馬韓の東北の地、百里を譲り受け、そこに諸侯国の十済を建てました。
その後、温祚は勢力を整え、馬韓の勢力圏から抜け出し、ふたたび、慰礼という称号を使い、A.D 9年に、洪城(ホンソン)馬韓を攻撃、滅亡させ、A.D 19年に沸流百済が滅亡した後、国の名前を十済から、全ての世の中を治める王という意味の百済に変えました。
温祚百済は、A.D 205年に仇台百濟に占領され、仇台百濟の1侯国になりましたが、久爾辛王の代で子孫が途絶えました。

(仇台百濟)
A.D204年10月に、扶余王慰仇台は、義理の兄弟公孫康が今の黄海道地方に設置した帯方郡に移動して国を建てた後、翌年7月に、温祖百済と益山(イクサン)馬韓を征服しました。この国の名前は、扶余の人々が移り住み、建てた国という意味の伊国、あるいは、扶余の人々が南に移り建てた国という意味の南扶余、多くの人々が移り建てた国という意味の百済でした。
王慰仇台が自身の建てた国の名前を百済と呼んだのは、慰仇台の入国を助けた公孫康を意識したためと思われます。
その後、A.D 205年に温祚百済を併合しています。
仇台百濟はA.D662年に羅唐連合軍の攻撃を受けて滅亡しました。
これが、百済の滅亡となります。


『百済の建国』
(百済の始祖は高句麗と同系か)
百済は伝説によれば紀元前18年に建国した。始祖の温祚王は、北夫余から逃れ卒本(中国桓仁)にいた趨牟(朱蒙=高句麗始祖)の子だという。
温祚たちは南の肥沃な地へ逃れ、弟の沸流は仁川で、温祚は河南慰礼城に生活して国名を「十済」としたという。
高句麗と同系と言うことを強調している。

(百済は建国と同時に高句麗と対峙)
実際は国としてまとまったのは4世紀前後といわれる。3世紀半には朝鮮半島西南部に馬韓が50カ国あったが、百済のおきた金浦平野は帯方郡に近く、その影響を受けて力を強めたと考えられる。
国政には帯方郡の中国人も関与していたようであるが、帯方郡の消滅とともに高句麗と直接対峙するようになった。
近仇首王(375-384)は平壌まで攻め入り、高句麗故国原王を殺した(371年)。
その一方、加やに進出して親交を結ぶとともに、太子の時代(近肖古王(346-375)のとき)に倭へ七支刀を送った。
それ以外にも大陸の文化を倭国に積極的に伝えた。千字文などの文字を伝えたとされる王仁もこの時期の人である。

(百済は倭、東晋と結びつき、高句麗、新羅と対抗)
高句麗、新羅が前秦(北朝)と結びついたのに対抗して、百済は東晋(南朝)や倭と結びついた。
そのため中国南朝の影響が強く、384年に東晋から仏教が伝わった。
396年には高句麗の広開土王の侵攻によって打撃を受けた。そのため阿莘王(392-405)は一度高句麗に下ったが、すぐ倭と通じて高句麗と対抗した。新羅が高句麗の勢力下に入ったのとは大きく異なる。
阿莘王の死後、日本に質として送られていた腆支が王(405-420)となり、倭との関係を維持する。
高句麗では長寿王の代となり、百済を攻撃し、蓋鹵王(455-475)は殺し、百済はここで一旦滅亡した(475年)。
475年、蓋鹵王が漢城で高句麗軍に殺害される直前、文周(475-477)は父王の命令に従って漢城を脱し、今の公州である熊津に都を移した。

『百済の外交力~伽耶進出と新羅との対立』
次の武寧王(501 -523)になって、王権の安定を目指して積極的な外交を行うようになる。
中国の南斉に使臣を送っていり、文化的にも南朝の影響が強い。また、漢城が落とされるとすぐに倭王「武(雄略天皇)」が南宋に高句麗の無道を訴えたり、東城王や武寧王が日本から百済に戻って王になったように日本とのつながりも強い。
武寧王は国内的には全羅道方面に領域を広げ、さらに伽耶の領有を主張して己文、帯沙を手に入れた(513 年)。このことが新羅との対立を激しくさせた。
百済と新羅は411年に婚姻同盟を結んでいたが、6世紀になり新羅の力が伸びて高句麗の影響力から離れると、百済と対抗するようになった。
武寧王を継いだ聖王(523-554)は538年に扶余に遷都した。
ここに都があったのは60年あまりのことであった。周囲を山に囲まれ、北を錦江が流れるため、防御には都合がよい。ただし、生産性に優れない。

(新羅との対抗)
551年、百済は新羅、加耶と連合して高句麗を攻撃して、漢城を回復した。
しかしその翌年、漢城は新羅に奪われた。これに対して百済は新羅を討とうとしたが、554年、管山城の戦いで聖王が殺されてしまい、百済が勢力を伸ばそうとした加耶は新羅に併合されてしまった。
その後、武王(600-641)は益山に弥勒寺を作るなどしたが、一方で新羅との戦いは続く。
次の義慈王(641-660)は642年の大耶城の戦いで旧加耶地区の大半を奪った。これに対して新羅は金春秋を高句麗に送り対抗しようとしたが、逆に高句麗は百済と連合して新羅を攻撃した。そこで新羅は唐と接近した。

【百済滅亡~日本大量渡来】
百済は660年、唐と新羅の連合軍により滅ぼされ、焼き払われた。
唐は熊津に都督府をおき支配しようとしたが、それに対して百済復興運動が起きた。
その中心だった鬼室福信は日本にいた王子豊璋を迎えたが、豊璋が鬼室福信殺害してしまうなどの内部分裂で弱体化してしまった。
日本からも援軍を送ったが、白村江(はくすきのえ)の戦いで決定的な敗北をきしてしまった。
百済が亡びたことにより、日本の政治も大きな変化が起きた。
日本にも多くの亡命者が来るとともに、当時の天智天皇は新羅の侵攻に備えて多くの朝鮮式山城が作り、防御態勢が整えられた。
日本に渡った百済系の渡来人の中には百済王氏をはじめ奈良時代以降の日本の政治や文化に大きな影響を与えた者も多い。


『百済の年表』
百済の年度表 代目 王 百済の主要な出来事。日本の主要な出来事
1 温祚王(B.C.18〜A.D.28)
 BC18 河南慰禮城に百済建国、東明廟の建立。
 BC2 国母廟の建立。
 AD9 馬韓の円山•錦峴城の降伏。
       弥生時代 紀元前後
2 多婁王(A.D.28〜A.D.77)
     57 倭の奴国王が漢に使臣を派遣。
3 己婁王(A.D.77〜A.D.128)
4 蓋婁王(A.D.128〜A.D.166)
5 肖古王(A.D.166〜A.D.214)
6 仇首王(A.D.214〜A.D.234)
7 沙伴王(A.D.234)
8 古爾王(A.D.234〜A.D.286)
 246 左将真忠を遣わし楽浪郡を攻撃
 260 6佐平16官等制定。
     262 律令頒布。 239 邪馬台国の女王卑弥呼が魏に使臣を派遣。
9 責稽王(A.D.286〜A.D.298)
 286 阿旦城と蛇城修理。
10 汾西王(A.D.298〜A.D.304)
 304 軍を送り楽浪の西の県を奪う。楽浪太守が送った刺客により汾西王が殺害される。
11 比流王(A.D.304〜A.D.344)
 327 內臣佐平優福が北漢城で反乱。
12 契王(A.D.344〜A.D.346)
13 近肖古王(A.D.346〜A.D.375)
 369 漢水の南側で査閲の実施時、全軍において黄色の旗を使用。
 371 高句麗の平壌城を攻撃。漢山へ遷都。東晋から寧東将軍領楽浪太守に冊立される。
 372 倭王に七支刀を送る。
 375 高興が書記編纂。 372 百済から七支刀を送られる。
14 近仇首王(A.D.375〜A.D.384)
 377 高句麗の平壌城攻撃。
15 枕流王(A.D.384〜A.D.385)
 384 東晋から来た胡僧摩羅難陀が仏教を伝来。
 385 漢山仏寺を建立して僧侶10人を出家させる。
16 辰斯王(A.D.385〜A.D.392)
 386 青木嶺において八坤城と西海に繋がる長城を築造。
 392 高句麗に漢水以北の多くの城を奪われる。高句麗により関弥城陥落。
17 阿莘王(A.D.392〜A.D.405)
 396 高句麗により58城陥落。
 397 太子腆支を倭に派遣。
18 琠支王(A.D.405〜A.D.420)
 408 上佐平を新設して王庶弟餘信を任命。
 413 東晋に使臣を派遣。
19 久爾辛王(A.D.420〜A.D.427)
 433 新羅に使臣を遣わし良馬2頭を送る。羅済同盟の始まり。
      421 倭王讃が宋に使臣を派遣。
20 毗有王(A.D.427〜A.D.455)
 450 劉宋に馮野夫を遣わし易林• 式占•腰弩を得る。
21 蓋鹵王(A.D.455〜A.D.475)
 458 劉宋により11名の臣下が官職を除授。
 475 漢城陥落。
22 文周王(A.D.475〜A.D.477)
 475 熊津遷都。
23 三斤王(A.D.477〜A.D.479)
 477 兵官佐平解仇の反乱
     478 倭王武が宋に使臣を派遣。
24 東城王(A.D.479〜A.D.501)
 498 耽羅征伐のため王が自ら武珍州に至る。
 501 苩加が放った刺客によって殺害される。
25 武寧王(A.D.501〜A.D.523)
 501 苩加の反乱を鎮圧して即位。
 502 高句麗の辺境攻撃。
 510 堤防を築いて流民を定着させる。
 521 梁から寧東大将軍に冊封される。
26 聖王(A.D.523〜A.D.554)
 525 武寧王を武寧王陵に安置。
 538 泗沘に遷都し、国号を南夫餘に変更。倭に仏教を伝える。
 541 梁に毛詩博士•『涅槃経』•工匠 •画師などを要請。
 551 漢江流域を回復。
 552 怒利斯致契が倭に仏教を伝える。
 553 新羅の奇襲で漢江流域を奪われる。羅済同盟の決裂。
 554 管山城の戦いにおいて聖王戦死。
     527 磐井の反乱。
     538 百済から仏教が伝来。
27 威德王(A.D.554〜A.D.598)
 556 倭に滞留していた恵王子が帰国。
 557 陵山里に王室願刹を創建。
     588百済の技術者によって飛鳥寺完工。
     593 聖德太子の摂政。
     595 法興寺創建。
28 恵王(A.D.598〜A.D.599)
29 法王(A.D.599〜A.D.600)
 599 禁殺令を下し、猟具を燃やす。烏含寺創建。
     600 初めて遣隋使を派遣。
30 武王(A.D.600〜A.D.641)
 602 百済僧侶である観勒が倭に渡り、天文•地理•易書•陰陽道を伝える。
 632 義慈王子を太子として冊封。
     607 遣隋使小野妹子派遣
     630 初めて遣唐使を派遣。
31 義慈王(A.D.641〜A.D.660)
 642 新羅を攻撃して大耶城を含めて40城余を陥落させる。
 643 国主母死亡。義慈王親衛政変を断行して権力改編。
 657 新羅•唐連合軍の百済侵攻,泗沘城陥落,百済滅亡。
     645 大化改新

復興運動期
(A.D.660〜A.D.663)
 660 黒歯常之•福信•道琛が百済復興軍を起こす。
 662 王子である豊しょうの帰国。百済王として即位。
 663 白村江の戦いで百済•倭の連合軍が羅•唐連合軍が戦ったが大敗。周留城•任存城陥落
 663 2万7千の百済救援軍出兵。白村江(白江)の戦いで大敗。
 664 熊津都督府の設置。
 665 就利山会盟。
 672 熊津都督府が廃止され、新羅が所夫里州を設置。百済故地占領。
     664 水城(7世紀中頃に構築された国防施設。現在の福岡県大野城市から太宰府市にかけてあっ
        た。)の建設
     672 壬申の乱。
     702 遣唐使が「日本」と称する。
     710 平城京に遷都。
     720『日本書紀』完成。東大寺完成。





この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-01-07 10:48 | (歴史)世界史 | Comments(2)

Commented by toshi at 2013-01-15 07:44 x
百済が三つの国から成っていたというのは初めて知りました
高句麗と同系であるというのも知りませんでした 朝鮮における抗争の(亡命も含めて)結果として日本に幾多の文化が伝来したことは とても意味が深いと思います
新羅との交流が比較的少なく 新羅より遠い百済との交流の方が盛んであった理由は何故なのでしょうか 知れば知るほど疑問が増えて行きます
Commented by mo-taku3 at 2013-01-15 15:00
百済という国はここに掲げた百済と後百済というのはあります。
後百済は後三国時代の百済を指します。この後三国時代(892年 - 936年)は、いわば戦国時代であり、後百済は以前の百済とは全く関係がありません。
後百済は、892年に新羅の将軍だった農民出身の甄萱(キョンフォン)が挙兵し建国しています。
また、新羅王族の弓裔(クンイェ)が、後高句麗を建国することによって新羅が弱体化していっています。
その後、918年に王建(太祖;ワンゴン)が弓裔(クンイェ)の後高句麗を下克上で高麗を建て、936年に高麗が朝鮮半島を統一しています。
この時代、日本は主に渤海国との交流が盛んでした。
また、倭寇が伸長し、新羅・百済の沿岸を荒らし回った時代で、対馬が拠点になっていたようで、逆に新羅・高麗から対馬が攻め込まれたこともあるようです。
百済は、日本に一番近くです。建国時は高句麗との隣接地にありましたが、落ち着き先は朝鮮半島の南西部となっています。