人気ブログランキング | 話題のタグを見る

下鴨神社

下鴨神社


京都市街のほぼ中央を北から南へ流れる鴨川。
その上流、賀茂川と高野川が合流する三角洲を只洲(ただす)河原と呼ばれている。
その北に古来、森林地帯であったことを今日に残す「糺(ただす)の森」がある。貴重な森として国の史跡に指定されている。
この三角洲から北は、もとは神武天皇が紀州の熊野から大和へ入られるとき、八咫烏(やたからす)として先導した賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)を祖とする賀茂一族が居住していた。
「糺の森」には賀茂氏が農作に水を給する農耕神を祀った“賀茂の社”があったといわれ、三角洲の北部を“上賀茂”、南部を“下鴨”と称している。
奈良時代の後期に入ると朝廷の意向で“賀茂の社”は上下に二分され、上社(じょうしゃ)を「上賀茂神社」、下社(げしゃ)を「下鴨神社」とされ、総称して「賀茂神社」と呼称されるようになった。
今でも、上賀茂神社の入口には「賀茂神社」の大きな石碑が建っている。

“賀茂の社”が上下に二分されたとき、両社の祭祀権は朝廷へ移されたが、賀茂一族の子孫が代々祠官として奉仕してきた。
更に平安京遷都(794年)後、王城の鎮護社となり伊勢神宮に次ぐ尊崇を受けることとなり、勅使による奉幣など国家の最高神として扱われる大神社となった。

両社は、平安時代以来の古い仕来たりを現在によく伝えるとして、平成6年12月、世界文化遺産に登録されている。


下鴨神社(しもがもじんじゃ) (正しくは賀茂御祖神社) 
祭神は賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)、玉依姫命(たまよりひめのみこと)
下鴨神社は、樹木の生茂る「糺の森」北部に本殿を構え、本殿は賀茂建角身命を祀る西殿と玉依姫命を祀る東殿とからなっている。
正式社名は賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)で、上賀茂神社の祭神(賀茂別雷神命)の祖父神(賀茂建角身命)と母神(玉依姫命)を祭神としていることから“御祖(みおや)”とされた。
嵯峨天皇の御代以来、皇女が斎王として奉祀されるようになった。
上下の賀茂社に仕える斎王は奉斎期間に常住したのは紫野斎院(上京区)であった。

糺の森には、二本の小川が流れていて、西側に流れる小川を「瀬見の小川」という。瀬見の小川に沿って北側に朱色の楼門がある。
楼門を入って西側に出雲井於神社(いずものいのうえ)がある。祭神は建速須佐之男命(たてはたすさのおのみこと)で、井泉を祀る出雲郷雲上里の産土神である。通称を比良木社(開き神・柊木神とも)。
出雲郷は、山陰地方の出雲から亀岡盆地を経て賀茂社の社地に隣接した賀茂川右岸地域に生活圏を持った豪族であった。現在では“出雲路橋”の地名を伝えている。

京都は平安遷都が行われる以前は全体的に湿地帯であったようだ。
昭和にはいってでも、賀茂川と高野川の合流地点で洪水になったことも伝えられるくらいである。
そのためか、水路が縦横にあり、川を利用した生活圏が形成されてきており、古い神社には川に関係した神事が多いように思う。

下鴨神社_e0237645_20572760.jpg


出町橋から見えるのは糺の森でその奥が下鴨神社である。

下鴨神社_e0237645_20574565.jpg


下鴨神社は、糺の森の東側に参道があり、これは一の鳥居である。

下鴨神社_e0237645_2058360.jpg


しばらく参道を進むと、二の鳥居が見えてくる。
この鳥居の横には、境内案内図や神社の謂れの駒札が建っている。

下鴨神社_e0237645_20581996.jpg

下鴨神社_e0237645_20595619.jpg

下鴨神社_e0237645_210668.jpg


御手洗は、樹齢600年以上といわれるケヤキが樋に使われ、また磐座石が使われている。

下鴨神社_e0237645_2102831.jpg

下鴨神社_e0237645_2103699.jpg


また、二の鳥居の前の両側には、石拾神事として次の遷宮時に本殿の回りに撒かれる、生石お祓い場が築かれていた。

下鴨神社_e0237645_2105773.jpg

下鴨神社_e0237645_2113028.jpg


楼門が見えてきた。
下鴨神社_e0237645_2114889.jpg

下鴨神社_e0237645_2121386.jpg


楼門をくぐると、舞殿がある。舞殿の正面には今年の干支(巳)の大きな絵馬が置かれていた。
また、楼門を入って西側に出雲井於神社がある。
下鴨神社_e0237645_2123127.jpg

下鴨神社_e0237645_2124257.jpg


本殿への入口の「中門」をくぐると、「えと詣で」の社がある(本社の真ん前)。

下鴨神社_e0237645_2141233.jpg

下鴨神社_e0237645_2142779.jpg


本殿はガラス張りの中に鎮座している。
あまり、類を見ない造りのような気がする。

下鴨神社_e0237645_2145541.jpg


「御手洗川」と「輪橋(そりはし)」 。
御手洗社/土用の丑の日に社前の池に足を浸けると夏痩せを防ぎ、病気にかからないとの信仰がある。
尾形光琳が描いた「紅白梅図屏風(国宝)」の梅(光琳の梅)が膨らみ始めていた。

下鴨神社_e0237645_2162217.jpg

下鴨神社_e0237645_217419.jpg

下鴨神社_e0237645_2171684.jpg


どうゆうわけか、ここ下鴨神社は出雲神を祀る神社である。というのもここから出雲路がはじまっており、すぐ横の賀茂川には“出雲路橋"が懸っている。

下鴨神社_e0237645_2173762.jpg


また、糺の森の「瀬見の小川」の西側にあるのが第一摂社の河合神社。正式名称は小社宅(おこそべ)神社で、はじめは賀茂社の社家に祀られていた屋敷神だったという。祭神は玉依姫命(神武天皇の母)である。
元はここより少し南の賀茂川と高野川が合流する只洲(ただす)河原に在ったと伝えられる。
二つの川が合流する河川敷にあったことから河合神社とされたらしい。
小さな社であるが、本殿は本宮の本殿と同じ三間社、流造、桧皮葺である。
「方丈記」の著者・鴨長明ゆかりの神社で、長命は禰宜の賀茂一族の出である。

下鴨神社_e0237645_2175914.jpg

下鴨神社_e0237645_2184562.jpg




*糺の森から出町橋を渡ると、そのふもとには『鯖街道の京都の起点碑』が建っている。

下鴨神社_e0237645_2193671.jpg



*賀茂斎院跡碑には、
「この地は平安時代から鎌倉時代にかけて賀茂社に奉仕する斎内親王、即ち斎王が身を清めて住まわれた御所(斎院)のあった場所であり、このあたりが紫野と呼ばれていたため、「紫野斎院」とも称された。この斎院の敷地は、大宮通と廬山寺通りを東南の角としており、約150メートル四方を占めていた。
斎王は嵯峨天皇皇女・有智子内親王を初代とし、累代未婚の皇女が卜定され、約400年続き後鳥羽天皇の皇女・35代礼子(いやこ)内親王をもって廃絶した。
斎王の中には選子(のぶこ)内親王や、式子(のりこ)内親王のように卓越した歌人もあり、斎院でしばしば歌合せが催された。また斎院には、ほぼ500人の官人や女官が仕えており、女官にも秀れた歌人が少なくなかった。
私達は、この文化遺産 斎院跡を顕彰し、後世に伝えるものである。
平成13年11月吉日
賀茂(紫野)斎院顕彰会」とある。

下鴨神社_e0237645_2358040.jpg



*『葵祭』
祭礼で有名なのは、都大路に王朝絵巻を繰り広げる「葵祭」。
京都三大祭(祇園祭・葵祭・時代祭)の一つの「葵祭」は、上下の賀茂神社の祭事。毎年、5月15日に執り行われていて正しくは「賀茂祭」という。
「葵祭」と呼ばれるようになったのは、神前や祭に供奉する人々が冠帽や飾った葵に因んでいるという。この葵祭は、既に平安時代には盛大に行われていて、「源氏物語」第四章には源氏の君の妃であった葵の上と、六条の御息所の車争いが書かれている。これは良い場所で祭り見物を行おうとするために起こったもの。王朝絵巻さながらの衣装を身にまとった優雅な行列は、京都御所から下鴨神社を経て上賀茂神社へ到着する。賀茂祭の起こりは明確でないようで、平安遷都以前に既に行われていたようだが、当初は五穀豊穣祈願であったようだ。遷都後に賀茂神社が、朝廷の尊崇を受けるようになってから祭りの形態も斎宮が牛車に乗る現在の形式に変化してきたという。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-01-17 17:39 | (寺社)京都の神社・仏閣 | Comments(4)

Commented by toshi at 2013-02-01 07:11 x
以前 能楽師の桜間右陣師から 伝統的に一つの文章の中で同じ言葉を繰り返すのは野暮なので漢字を書換えていくと教わったことが有りますが 賀茂 鴨 の使い分けは何となく明確なようでも有りますね 賀茂神社には出雲の匂いを強く感じます 京都と出雲は古代においては相当な距離(時間)がかかったでしょうし 間に吉備が有り 未だに整理が付きません
又 両賀茂社の距離は実際に歩いて見ましたが中々の距離があり 何故このような位置に二社が置かれているのか 疑問が尽きません
Commented by mo-taku3 at 2013-02-01 22:30
いつもコメントありがとうございます。
かもはもう一つ“加茂”というのも京都では使います。
また古い文献にもこの名前が出ています。
出雲路は多分吉備は通っていないと思います。何故なら、本質的に犬猿の仲だった思います。今の山陰本線に沿って、丹波から鳥取に抜けていたと思います。
また、賀茂神社が二分化されたのは、由緒ある下鴨神社(賀茂神社)の祭祀権を調停が欲しがったことによるものと思います。
上賀茂神社の向背に神山(こうやま)というのがありそこに祀られていた神社が上賀茂の前身とのことです。
この両社が斎王の行事を行っていることが伊勢神宮との絡みで何かありそうな気がしています。
Commented by kuma at 2013-02-02 13:26 x
天下の三不如意に語られるように、鴨川は今とは違い氾濫を繰り返していたようですね。長い歴史の中で、自然の猛威から守る手立てを積み重ねても、自然に敵うこともなく、偶然を察知することも成らず、宗教を後ろ盾とする争いも消えることが無いですね。
Commented by mo-taku3 at 2013-02-06 14:06
なかなか鋭いとこを突いていますね。そうなんですが、色々努力の跡が小さなところであります。
以前に載せたかもしれませんが、“石塀小路”の由来をご存知ですか。(繰り返しになったらごめんなさい)
石塀小路は高台寺町にありますが、この辺りは大雨が降るといつも洪水に悩まされていました。そこで、道と塀を石で固めることにして洪水を防いだそうです。今もその石塀ですが、改築などがあってもやはり石塀で固めるそうです。
ここにも小さな努力が生きています。
また、昔から京都は洛中はも含めて農業が盛んなところで、琵琶湖の水を引いて灌漑が縦横に巡っていますが、大水に対応できないことがあり、今でも小規模の洪水が見られます。