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京都五山第一位【天竜寺】

京都五山第一位【天竜寺】


天龍寺の地には平安時代初期、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子が開いた檀林寺があった。
その後約4世紀を経て荒廃していた檀林寺の地に後嵯峨天皇(在位1242年 - 1246年)とその皇子である亀山天皇(在位1259年 - 1274年)が離宮を営み、「亀山殿」と称した。
「亀山」とは、天龍寺の西方にあり紅葉の名所として知られた小倉山のことで、山の姿が亀の甲に似ていることから、この名がある。天龍寺の山号「霊亀山」もこれにちなんでいる。
足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため、大覚寺統(亀山天皇の系統)の離宮であった亀山殿を寺に改めたのが天龍寺である。
尊氏は暦応元年/延元3年(1338年)、征夷大将軍となった。後醍醐天皇が吉野で崩御したのは、その翌年の暦応2年/延元4年(1339年)である。
足利尊氏は、後醍醐天皇の始めた建武の新政に反発して天皇に反旗をひるがえした人物であり、対する天皇は尊氏追討の命を出している。いわば「かたき」である後醍醐天皇の崩御に際して、その菩提を弔う寺院の建立を尊氏に強く勧めたのは、当時、武家からも尊崇を受けていた禅僧・夢窓疎石であったようだ。
寺号は、当初は年号をとって「暦応資聖禅寺」と称する予定であったが、尊氏の弟・足利直義が、寺の南の大堰川(保津川)に金龍の舞う夢を見たことから「天龍資聖禅寺」と改めたという逸話がつたわっている。
寺の建設資金調達のため、天龍寺船という貿易船(寺社造営料唐船)が仕立てられたことは有名である。

天龍寺は京都五山の第一として栄え、寺域は約950万平方メートル、現在の嵐電帷子ノ辻駅あたりにまで及ぶ広大なもので、子院150か寺を数えたという。
しかし、その後のたびたびの火災により、創建当時の建物はことごとく失われた。
中世には延文3年(1358年)、貞治6年(1367年)、応安6年(1373年)、康暦2年(1380年)、文安4年(1447年)、応仁元年(1467年)と、6回も火災に遭っている。
応仁の乱による焼失・再建後、しばらくは安泰であったが、江戸時代の文化12年(1815年)にも焼失、さらに幕末の元治元年(1864年)、禁門の変(蛤御門の変)で大打撃を受け、現存伽藍の大部分は明治時代後半以降のものである。
また、2500点余りの天龍寺文書と呼ばれる文書群を所蔵している。
中世・近世の京都寺院の状況を知る上では貴重な史料である。
方丈の北側には、宮内庁管理の亀山天皇陵と後嵯峨天皇陵がある。

渡月橋から続く嵐山のメイン通りには、大きな「大本山天龍寺」の石碑と世界文化遺産の看板が目につく。

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そこから中に入ると総門がある。

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中門がその先にある。

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中門をくぐり、勅使門を裏から見るとかなり傷んでいることが分かる。

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振り返ると遠くに法堂が見える。
これは大きな戦乱・地震・火災などにより、それまであった三門、仏殿などは今まで再建されていないことわかる。

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法堂である。
ここでは、雲竜図の公開をしていた。

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大方丈。小方丈・書院は修理中であった。

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法堂の横の休憩所には春夏秋冬の写真が飾ってあった。

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この寒さでも多くの人で賑わっていた。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-01-31 17:00 | (仏閣)京都のお寺 | Comments(0)