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祭神が秦の始皇帝である『大酒神社』

祭神が秦の始皇帝である『大酒神社』


大酒神社
この大酒神社は、まだ解き明かされていない古代のかなり深い歴史を持った神社である。
   祭神--秦始皇帝・弓月王・秦酒公
   相殿--兄媛命・弟媛命(呉織女・漢織女)

京都に残る唯一の路面電車・嵐電の太秦広隆寺駅で下車。
広隆寺南大門前の交差点から、寺の塀に沿って道を上って行くと、徒歩で4分ほどのところに、大秦明神と書いた大きな石碑が鳥居の側に建っている。そこが大酒神社である。

道路脇に東面して鳥居が立ち、一間社流造の社殿一棟が南面して建っている。
境内社とし、て“三神の社”(祭神:ニニギ尊)他3社があるというが、今の境内には、それらしき社祠は見当たらず、理由は、古くは広隆寺内にある桂宮院の鎮守として御堂の背後にあったが、明治初年の神仏分離によって現在地に遷ったことによる。
 
鳥居の脇に、細かい字で長々と綴った由緒書きが建っている。それによると、
本社の祭神は秦始皇帝(しんのしこうてい)、弓月王(ゆずきのきみ)、秦酒公(はたのさけのきみ)の三柱である。
その他に、呉服(くれはとり)漢織(あやはとり)の神霊である兄媛(えひめ)命と弟媛(おとひめ)命を相殿に祀っている。これらの神は、大酒神社の近くに祀られていたが、明暦年中に破壊してしまったため、当社に合祀することになったとある。
大酒神社の創建は古く、延喜式神名帳葛野郡二十座の中にもその名がある。
以前は、大辟神社と称したとある。
由緒書きは次のように説明している。仲哀天皇8年(356)、秦の始皇帝の十四世の孫にあたる巧満(こうまん)王が、漢土の兵乱を避け、日本の醇朴な国風を尊信して初めて来朝した。そして、始皇帝の神霊をこの地に勧請した。そのため、「災難除け」「悪疫退散」の信仰が生まれ、「大辟」神社と呼ばれるようになったという。よく分からない理由付けである。 (大辟(たいへき)の意味は、最も重い刑罰(死罪)をである。)

由緒書きによれば、巧満王(古代伝承上の渡来人。弓月君(ゆづきのきみ)の父。「新撰姓氏録」によれば,秦(しん)(中国)の始皇帝の子孫で仲哀天皇8年に渡来。太秦(うずまさ)氏,秦(はた)氏らの祖とされる。「日本三代実録」には応神天皇14年に渡来とある。)の子の弓月王が応神天皇14年(372)百済より127県の民衆18670余人を統率して帰化し、金銀玉帛などの宝物を献上した。
また、弓月王の孫の酒公は、秦氏諸族を率いて蚕を養い、呉服漢織に依って絹綾錦の類を夥しく織出し、朝廷に奉り絹布が宮中に満積して山のごとく丘のごとくだった。天皇は悦びのあまり、埋益(うずまさ)という意味で禹豆麻佐(うずまさ)という姓を賜ったとある。
明らかになっていない諸説渦巻く(太秦?)中に存在する、興味そそる神社である。

鳥居とその右には、鳥井脇に立つ石標の正面には「太秦明神 呉織神 漢織神」、側面には「蠶養機織管弦楽舞之祖神」とある(蠶は蚕の古字)が何時堂のような内容で建てられたかは分かっていない。

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かなり具体的な「由緒書」である。

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皇紀2600年記念碑が正面に建っている。

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本殿。

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大酒神社は、広隆寺の伽藍神として桂宮院に祀られていた。しかし、明治のはじめの神仏分離令によって現在地に移建された。
10月12日の夜に、広隆寺の境内で執り行われる“太秦牛祭”は、この神社の祭である。
京都三大奇祭の一つに数えられ、京都市登録無形民俗文化財になっている。
牛にまたがって奇妙なお面をつけたマダラジンが登場し、土地特有の方言を交えた極めて奇妙な祭文を読み上げる神秘的な祭であるという。



この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-06-05 11:12 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)

Commented by toshi at 2013-06-11 07:22 x
上賀茂 下賀茂の賀茂氏 太秦の秦氏 と 渡来人が集結した場所が京都にはしっかり残っていますね うろ覚えですが 秦氏は朝鮮からの渡来人であったが祖は中国であったと主張したと読んだ記憶があります 自らの祖として始皇帝を選ぶことが 権威付けとなったのではないでしょうか 明神は吉田神道の神仏混淆論から生じた日本固有の神ですから 中世以降に日本文化に交じり合って行った過程が感じられて興味深いです
Commented by mo-taku3 at 2013-06-11 09:00
いつものように、当てもなく、地図も持たず、今日はこの辺と思って歩いていましたが、たまたま行き当たりました。
見かけは品疎な時神社のようでしたが、由緒書を見て、心が躍りました。もっと調べるとまだまだ出てきそうですね。
「隋書」伝に、『秦王国があった』と記されているそうで、弓月君が18,000人以上の人を連れて帰化したということと、仲哀天皇・応神天皇の時代ということとは真実が見え隠れしているような気がして楽しそうですね。
日本書紀が歴史を改竄したと言われていますが、上のことが事実なら改竄しなければならなかったのかもしれませんね。