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河合神社と鴨長明(特別資料展)

河合神社と鴨長明(特別資料展)20130630


河合神社(かわいじんじゃ)は下鴨神社の摂社であり、下鴨神社の二の鳥居をくぐって直ぐ左にある。
祭神:玉依姫命(神武天皇の御母神)
神徳:安産・育児・縁結び・学業・延命長寿の守護神

ここは、「方丈記」の著者・鴨長明ゆかりの神社として有名であるが、正式名称は鴨河合坐小社宅(かものかわいにいますおこそべ)神社で、賀茂社の社家に祀られていた屋敷神だったという。
秦氏が祀っていたが、賀茂氏が秦氏の婿となり、祭祀権を譲られたとの伝承がある。
起源から考えると平安遷都以前からの古社なので、秦氏の地盤にある、木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ;京都市右京区太秦にある神社)通称木嶋神社(このしまじんじゃ)と関係がありそうである。。(本殿東側に織物の始祖を祀る蚕養(こかい)神社があることから蚕の社(かいこのやしろ)の通称が広く知られている。)
この神社には、元糺の森、元糺の庭が存在している。
このことで、以下の説明が繋がってくる。

元はここより少し南の賀茂川と高野川が合流する只洲(ただす)河原に祀られたことから河合神社という。
鎮座の年代は不詳であるが神武天皇の御代からあまり遠くない時代と伝えられていて、「延喜式」には「鴨河合坐小社宅神社」とある。
「鴨河合」とはこの神社の鎮座地をいい、「小社宅(こそべ)」は「日本書紀」に「社戸」としるされ、本宮(下鴨神社)の祭神と同系統の神との意であるという。
明治10年(1887)賀茂御祖神社(下鴨神社)の第一摂社に列せられた。
現在の社殿は、延宝7年(1679)式年遷宮により造営された古殿を修理建造したもので、賀茂御祖神社の本殿と同じ三間社、流造、桧皮葺である。
境内には「方丈記」の著した鴨長明の資料館と、長明が考案した「方丈の庵」とがある。
 
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鳥居は聖域への結界を意味する お寺の山門を思わせる表門 河合神社に面して鎮座する三井社。(本宮にも三井社が祭られている)
祭神は、中社に、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)、西社に、伊賀古夜日賣命(いかこやひめのみこと)、東社に、玉依媛売命(たまよりひめのみこと)の三柱を祀る。
平安時代中期、蓼倉郷(たでくらごう)は賀茂御祖神社(下鴨神社)の神領となる。ほかに、栗野(くるすの)郷、上粟田郷、出雲郷があった。
葛野里にも分霊社が祀られた。鴨社蓼倉郷の総社(祖社)として祀られたともいう。
・蓼倉郷 蓼倉郷、三井社の所在地は不明だが、賀茂御祖神社(下鴨神社)の境内ともいう。「柳原家記録」(1861)中の「松崎陵戸田」、現在の左京区下鴨・松ヶ崎が比定されている。下鴨・田中ともいう。蓼倉町、蓼倉橋の地名が現在も残っている。

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境内に任部社(とうべのやしろ)があり、八咫烏命(やたからすのみこと)を祀っている。
八咫烏とは熊野の大神<素盞嗚尊(すさのおのみこと)>のお仕え。
八咫烏の「八咫」は大きく広いという意味。
八咫烏は太陽の化身で三本の足があり、天・地・人を顕すと言われている。
天とは天神地祇のこと。地とは大地のことで自然環境を指す。つまり太陽の下に神様と自然と人が血を分けた兄弟であるということを示している。また、蹴鞠の祖神とされることから日本サッカー協会のシンボルとなっている。
また、このとき天から遣わされた八咫烏(ヤタガラス)の道案内により山中を行軍したと『古事記』や『日本書紀』に書かれていて、熊野の神々の使いとされている。

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貴布禰総本宮は貴船神社であるが、どうゆう関係なのか分からないが、ここにも貴布禰神社がある。

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河合神社の説明と境内図が書かれている。

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舞殿。

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本殿。

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河合神社の本殿にずらりと奉納されている「鏡絵馬」。
裏には願い事を書き、表には自分の使っているアイテムを使って、自分でお化粧をする珍しいタイプの絵馬です。 いろいろな表情があってとても華やか、みんな口角が上がってしあわせ顔です!

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長明の「方丈の庵」
鴨長明50歳のとき、すべての公職から身を引き大原へ隠遁し、大原から方々を転々として58歳のころに落ち着いた。各地を移動している間に「庵」として仕上げたのがこの「方丈」である。移動が便利なように全てが組み立て式になっていて、広さは、一丈(約3m)四方、約2.73坪。畳で五畳半程度。間口、奥行きとも一丈四方ということから「方丈」の名がついた。さらにもう一つの特徴が、土台状のものが置かれ、その上に柱が立てられていることである。これは、建物の移動ということを念頭に柱が構築されるからである。下鴨神社は年式遷宮により21年毎に本殿が造り替えられる建築様式(土居桁構造)であり、これにヒントを得たものといわれる。(説明板から)

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鴨長明(かものちょうめい)
久寿2年(1155)、下鴨神社禰宜・長継の次男として生まれた。
応保元年(1161)、7歳のとき、下鴨神社の第六回式年遷宮が行われ、長明も神職の道につき、従五位下に叙せられたが、その後、長明は禰宜(神職のこと)になれなかったとされている。
しかし、長明は幼少の頃から学問に秀で、特に歌道に優れていた。安元元年(1175)21歳のとき、高松女院歌合せに和歌を献じ注目を集めた。
治承4年(1180)26歳のとき、福原へ都が遷されたため、宮中に奉仕する長明も福原へ赴任したが、壇ノ浦で平家は滅亡し、都は再び平安京へ遷都され帰洛している。
正治2年(1200)、46歳のとき、後鳥羽院から召されて院の歌会や催しに和歌を献じることとなった。
翌、建仁元年(1201)、和歌所の寄人に任ぜられる。
元久元年(1204)、50歳の春、宮中の要職を辞して出家し、洛北大原に隠遁した。
その後、世の無常と人生のはかなさを随筆として著したのが「方丈記」である。
大原から方々を転々として、承元2年(1208)、58歳のころに落ち着いている。 (伏見区日野町に「長明の方丈庵跡」がある。)
元久2年3月、「新古今和歌集」に
『石川や 瀬見の小川 清ければ 月も流れを たずねてやすむ』
をはじめ十首が採録された。
「瀬見の小川」とは、現在も河合神社の東に流れる川のこと。
「方丈記」を、ついで「無名抄」を著した。建保4年(1216)6月8日、62歳で没した。

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鴨長明の木像(河合神社資料館に展示)

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鴨長明は「方丈記」有名であるが、それ以外にも色々な書き物がある。
この日は、下鴨神社の大炊殿とともに、ここ河合神社にある河合神社資料館には、自筆・写本・版本それぞれが展示されている。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-06-30 11:00 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)

Commented by toshi at 2013-07-10 07:56 x
ゆく河の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず よどみに浮かぶうたかたは かつ消えかつ結びて久しくとどまりたるためしなし 余り意味も分からず暗記したのが懐かしくなります 
方丈が組み立て式だったことに大変興味を持ちましたが 書物など資料を置く場所もなく 昔の人は随分簡素な生活をしていたものだと感心しました 
Commented by mo-taku3 at 2013-07-12 00:33
今の感覚では見れないですね。
その時代に合わせたものの見方が重要でしょうね
なかなかできまえんが。