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長岡京の一角にあたる『向日神社』とは

長岡京の一角にあたる『向日神社』とは


向日神社の鎮座する向日山は、向日市西部の向日丘陵の最南端に位置しているが、その山上に向日神社と元稲荷古墳(神社の北側の勝山公園内)がある。
神社と古墳があることからも向日山は、古代からこの乙訓地域のシンボル的な山として、乙訓地域を治める人々にとって神聖な場所と考えられてきたと思われる。
そして、向日神社の創建も、この元稲荷古墳と何らかの関係があったとのではないかと考えられている。

さて、この向日神社は延喜式神名帳に記載された式内社であり、神名帳においては、山城国乙訓郡向神社(むこうじんじゃ)と称され、後に火雷神社(ほのいかづちじんじゃ)を併祭して、今日に至っている。
この両社は、同じ向日山に鎮座されたので、向神社は上ノ社、火雷神社は下ノ社と呼ばれていた。

向日市の資料によると、
「神武天皇が大和国橿原より山城国に遷り住まわれたとき、神々の土地の故事により、向日山麓に社を建てて火雷大神を祀られたのが創立である。
同じ向日山に鎮座された二つの社は、向神社が上ノ社(カミノヤシロ)、火雷神社は下ノ社(シモノヤシロ)と呼ばれていた。
養老2年(718)社殿改築遷座の折、火雷大神の妃神・玉依姫命を、また創立の因縁により神武天皇を併祭し、建治元年(1275・北条執権期)下ノ社社殿荒廃により上ノ社に併祭、以降下ノ社の再興がならず、上ノ社に上記4神をお祀りし、向日神社として今日に至っている」

というが、この弊祭の経緯について、旧聞抄によれば、
「向神社と火雷神社とは本来別社であったが、承久の変(1221)に火雷神社の神主六人部(ムトベ)氏義が天皇方に組して敗れ、その子孫が丹波に隠棲した。曾孫氏貫の代に至り、建治元年(1275)旧里に戻ったが、社殿の頽廃はげしく、向神社の神主葛野義益の建議によって、火雷神社の樋代を向日神社に納めた」

また、上ノ社は五穀豊穣の神として、下ノ社は祈雨、鎮火の神として朝廷の崇敬の特に篤い神社であったことは、古書に数多く見られます。

乙訓地区は、歴史上なぞの多い秦氏との関係が深く、出雲神との関係も引きずっているようなので、これからは史跡の解明が進み、空白の時代が解き明かされることを期待したい。

鳥居と駒札。

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見事に整備された、真っ直ぐな「参道」。

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境内図。

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併設されている「勝山稲荷神社」。

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舞楽殿。

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本殿。

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勝山神変大菩薩(役行者尊像)を鎮座させている岩窟。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-07-06 12:52 | (寺社)京都の神社・仏閣 | Comments(2)

Commented by toshi at 2013-07-23 07:39 x
先ず 向日市の読み方が判りませんでした 何処にあるのかも...
乙訓郡の方が馴染があるくらいで... 桓武天皇が京都に移る前に何故長岡京に都を置いたのか 風水を無視すればこの地も肥沃な良い土地だったのではないでしょうか 何故か立派な参道の写真を見て この参道を観るだけでも行く価値があるかなと思ってしまいました
Commented by mo-taku3 at 2013-07-24 01:06
長岡京があった地域は、出雲神やトヨ系の神が圧倒的に占めています。
奈良の出雲神・トヨ系神から京都・亀岡・綾部までは私の中で繋がってきました。もう少しのような気がします。