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『新島八重の写真展』(二条城)

『新島八重の写真展』(二条城)


新島八重は、会津藩の砲術師範であった山本権八・さく夫妻の子として誕生。
会津戦争時には断髪・男装して家芸であった砲術をもって奉仕し、若松城籠城戦で自らもスペンサー銃と刀を持って奮戦したことは有名。
会津戦争が始まる前、但馬出石藩出身で藩校日新館の教授を務めていた川崎尚之助と結婚し、会津若松城籠城戦を一緒に戦ったが、敗戦後に捕虜となった夫と離ればなれとなり、以降二度と再会しなかったといわれている。
以前は会津籠城戦前に尚之助と離婚したと言われていたが、実際の離婚手続きは明治4年である。
明治4年、京都府顧問となっていた実兄・山本覚馬を頼って上洛し、翌年、兄の推薦により京都女紅場(後の府立第一高女)の権舎長・教道試補となる。
その後、兄の元に出入りしていた新島襄と知り合い、明治8年(1875年)10月に婚約する。当時、新島のキリスト教主義の学校建設を阻止しようと町の僧侶・神官たちが連日のように抗議集会を開き、京都府知事・文部省に嘆願書を提出するなどし圧力をかけていたため、京都府は婚約直後に八重を女紅場から解雇したという。
しかし、明治9年(1876年)1月3日に再婚し、女紅場に勤務していたときの経験を生かして、同志社の運営にも影響を与えた。
欧米流のレディファーストが身に付いていた襄と、男勝りの性格だった八重は似合いの夫婦であったという。夫婦仲はとても良く、夫の襄はこの時期にアメリカの友人への手紙で「彼女の生き方はハンサムなのです。」と書いている。
明治23年(1890年)1月23日、襄は病気のため急逝した。襄の死後の八重は、襄の門人たちと性格的にそりが合わず、同志社とは次第に疎遠になっていったという。

襄の死から間もない明治23年(1890年)4月26日、八重は日本赤十字社の正社員となり、明治27年(1894年)の日清戦争では、広島の陸軍予備病院で4ヵ月間篤志看護婦として従軍し、 40人の看護婦の取締役として、怪我人の看護だけでなく、看護婦の地位の向上にも努めた。
昭和7年、寺町丸太町上ルの自邸(現・新島旧邸)にて死去。86歳。
墓所は、京都市左京区鹿ケ谷若王子山町の京都市営若王子墓地内同志社墓地。

『京の七夕』の協賛として、二条城では夜間無料開放し、更にこの「八重とその時代展」という写真展をやっており、普段目にしたことがない貴重な写真を展示していた。

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非常に珍しい帯刀姿の八重

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新島夫婦の写真

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左は、母親の山本さく

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山本みね、伊勢みや、と八重

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同志社英学校、最初の校舎

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新島旧邸

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八重の洋装と和装姿
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Alpheus Hardy;アルフェウス=ハーディ(以下資料による)
新島が滞米中はもとより、帰国して同志社英学校(後の同志社大学)を設立し、合わせて宣教師として全国にキリスト教の伝道活動を行なう時にも、常に新島を実の息子のように暖かく励まし、財政的援助をおしみませんでした。
ピューリタンとしてのハーディは異邦人・新島に対して「神の前においては全ての人間は平等であり、兄弟である」というキリスト教博愛主義を理解させた1人でもありました。
ハーディー(1815~87年)はボストンのキングス通り(現在のステート通り)に会社を持つ大商人で、キリスト教や教育に於いても広く活躍をしていました。
ボストンオールドサウス教会の会員であり、さらにアンドーバーにあるフィリップスアカデミー、アムハーストカレッジ、アンドーバー神学校(現在のアンドーバーニュートン神学校)の理事でもありました。
新島の向学心に心を打たれたハーディーは、自らが理事をしている学校で新島を勉強させる機会を与えてくれました。新島はハーディをアメリカの父と呼び、自らのミドルネームに彼の名前をもらい、ジョセフ=ハーディ=ニイシマと名乗りました。
現在でもハーディにゆかりのある場所をボストン近郊で見ることができます。

2枚目は、ハーディ氏の奥方。

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大久保利通、新島襄の母親。

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木戸孝允(桂小五郎)
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新島襄家族と山本咲

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山本みね、伊勢みや

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新島八重と女学生(女紅場時代?)

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赤十字看護服姿の八重

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-08-03 20:30 | 歴史散歩 | Comments(2)

Commented by toshi at 2013-08-06 08:22 x
大河ドラマの影響力を見せつけるような 八重ブームですね
八重もさることながら山本覚馬にスポットライトが当てられたことに拍手です 同志社という名称も覚馬の提案とか 他の大学がキリスト教の各宗派による設立なのに比し 同志社が特定の宗派に係わりなく基督教哲学を基軸としたところに素晴らしさを感じます
Commented by mo-taku3 at 2013-08-06 22:54
山本一族が何故京都なのか、何故東京ではなかったのかということが不思議です。
山本覚馬の京都に対する愛着でしょうか。