蓮華王院(三十三間堂)の横にたつ『後白河天皇法住寺陵』
平安時代中期に藤原為光(従一位、太政大臣)によって創設され、その後院政期にはこの寺を中心に後白河上皇の宮廷「法住寺殿」がいとなまれた。
法住寺殿が木曾義仲によって焼き討ちされ、その後、数年を経て後白河上皇もなくなると、法住寺は後白河上皇の御陵をまもる寺として江戸時代末期まで存続し、明治期に御陵とお寺が分離され現在にいたっている。
寺内の「身代不動明王(みがわりふどうみょうおう)」像は、平安期の作風とされる。
この不動像は寺伝では慈覚大師が造立したといわれ、後白河上皇の信仰も篤かった。
義仲の放火のさいに、上皇の身代わりとなったと伝えられており、現在も毎年11月15日には不動会(ふどうえ)がいとなまれる。
さて、後白河天皇の御陵であるが、法住寺の脇に「旧御陵正面」とい石碑がある。
間に法住寺があるが、この奥の正面に御陵がある。
ということは、御陵とお寺が分離される以前は、ここから御陵に行ったということか。
法住寺の正面。
法住寺の隣りには、御陵の参道がある。
正面からみた御陵。
この御陵には他にも何人かの皇子などが祀られている。
法住寺の境内。
この境内の奥が御陵となる。
この項 <完>
by mo-taku3 | 2013-08-22 22:19 | 歴史散歩 | Comments(0)