天神祭の『大阪天満宮』を初めて訪問
大阪天満宮の創社(鎮座)は、平安時代中期になる。
天満宮というと菅原道真公(菅公)であるが、菅公は、延喜元年(901年1月25日)、政敵であった藤原時平の策謀により、昌泰4年(901年)九州太宰府の太宰権帥(だざいごんのそち)に左遷された。
菅公は、色んなところに立ち寄ったとの逸話がのこっているが、ここでは摂津中島(ここ天満宮の境内にある)の大将軍社に参詣した後、太宰府に向ったとなっている。
しかし、大宰府では、幽閉と同様の扱いを受けたといい、劣悪の環境下で2年後にわずか59歳でその生涯をとじている。憤死したようだ。(延喜3年/903年2月25日)
その約50年後、天暦3年(949年)のある夜、この大将軍社の前に突然七本の松が生え、夜毎にその梢は、金色の霊光を放ったと言われている。
この不思議な出来事を聞いた村上天皇は、これを菅公に繋がる縁として、勅命を出し官公を鎮座している。
この大阪天満宮は、江戸時代の記録に残るだけで七度もの火災に遭い、なかでも大阪市中を焼き尽くした享保9年(1724年)の妙知焼け*や、大塩平八郎の乱*による天保8年(1837年)の大火では、全焼している。
それでも、その約6年後に、大阪市中の献身的な人達によって、現在のご本殿が再建されている。
それが現在の本殿である。
表門から見た、「大阪天満宮」。
この門の脇には手書きのカラフルな「境内の図」が描かれていた。
「なにわ七幸めぐり」の一つとなっている。
現在の本殿は、天保14年(1843年)に再建された物である。
社殿の前の狛犬が、ちょっと変わった中国風のものではと思っている。
神武天皇聖蹟難波之碕(なにはのみさき)顕彰碑は昭和15年に起工式が行われたものである。
これは日本書紀に記載された内容をもとに、神武天皇が上陸を果たせなかった難波之碕激戦地を東征の記念碑として起工されたようだ。
大将軍社 本殿
現在の本殿は、弘化2年(1845)に再建された物で権現造りです。
蛭子門。
大阪天満宮には六つの門があり、蛭子門は、もともとこの門を入ってすぐ左手に戎社が祀られていたことから「蛭子門」と呼ばれている。
日本で大阪が珍しい色のガラス玉細工を始めた最初で、日本のガラス工業界は大阪のここが発祥地とされている。
裏門にあたる「大工門」がある。
大工門を抜けるとそこには『繁昌亭』がある。
上方落語協会会長 桂 文枝はホームページで、
『大阪の噺家にとって、長年の悲願でございました天満天神繁昌亭が、多くの方々のご厚志とご支援により、2006年9月15日にオープンいたしました。
天満天神繁昌亭のホームページでは天満天神繁昌亭の様々な情報、また200人を超える上方落語家の動きや情報を満載し、随時新情報を更新してまいります。ぜひごらんください。』とあった。
公演は、朝・昼・夜の三部作となっている。
この項 <完>
by mo-taku3 | 2013-08-22 22:33 | (寺社)関西の神社・仏閣 | Comments(0)