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初秋の嵯峨野の風情『大覚寺と大沢の池』

初秋の嵯峨野の風情『大覚寺と大沢の池』

真言宗大覚寺派の本山。(資料を引用)
876年(貞観18年)、嵯峨天皇の離宮嵯峨院を寺に改め、歴代の天皇や皇族が住持された門跡寺院であり、嵯峨御所として知られている。
山号は嵯峨山。本尊は五大明王。
平安初期、嵯峨天皇は当地に離宮をつくり、譲位後は仙洞(せんとう)御所とし嵯峨院と称したが、811年(弘仁2)に空海に勅して五大明王像を刻し、五大明王の秘法を修せしめた。
818年(弘仁9)春、疫病流行の際、天皇は紺紙金泥(こんしこんでい)の『般若心経(はんにゃしんぎょう)』を書写して心経堂を建て、空海が奉供した。この縁でいまでも心経写経を進めている。
876年(貞観18)嵯峨天皇の皇女正子内親皇(淳和(じゅんな)天皇皇后)が嵯峨院を譲り受けて仏寺に改め、嵯峨天皇の孫にあたる恒寂(こうじゃく)法親王が開山となり、以後、代々法親王が入った。
1268年(文永5)後嵯峨(ごさが)上皇が、続いて亀山(かめやま)法皇が入寺。また1308年(延慶1)には後宇多(ごうだ)法皇が入寺して伽藍(がらん)の造営に努めたので、大覚寺法皇と称せられ当山の中興開山とされる。
その後、亀山院、後宇多院の皇統に属する皇族が代々住持を勤めたので、この皇統を大覚寺統とよび、後深草(ごふかくさ)天皇の皇統である持明(じみょう)院統と勢力を二分し、南北両朝分立の原因ともなった。1336年(延元1・建武3)兵火により全焼、のち再建された。1392年(元中9・明徳3)南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)の講和のおり、南朝の後亀山(ごかめやま)天皇から北朝の後小松(ごこまつ)天皇に三種の神器が授受された歴史的舞台としても知られる。
応仁(おうにん)の乱でふたたび焼失したが、豊臣(とよとみ)・徳川両家の保護・寄進によりしだいに旧に復したが、江戸末期から明治初期にかけて一時無住となり衰退したが、1876年(明治9)に宮中から200石を受けて復興し、1900年(明治33)に真言宗大覚寺派として独立した。

ここは表門だが、ここからの眺めを見ると、よく整備されているように見受ける。

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中に入ると「嵯峨御流」のいけばなが展示されていた。
嵯峨御流は、池坊よりも古く、嵯峨御流の礎となった菊ヶ島があり、嵯峨天皇がこの島の菊を生けたのが最初と伝わっているそうで、お弟子さんが日本一という。その大覚寺はいけばな『嵯峨御流の総司所』としても知られている。

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この玄関は、御所から移設されたもので、狩野永徳の「松に山鳥図」がバックに描かれている。

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境内は広く、建物もゆったりと配置されているため、平凡ではない回廊が幾つかある。

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大沢の池は、もと嵯峨天皇が弘仁年間(810~824)に造営された離宮「嵯峨」の苑池の一部で、現在大覚寺境内に属している。
中国の洞庭湖(どうていこ)になぞらえて「庭湖」ともいい、作庭当時は泉・滝・名石等の美を極めたとある。
池中に菊島・天神島のほか、巨勢金岡(こせのかなおか)が置いたという庭湖石などを配した池泉舟遊式庭園で、ひろびろとした大陸的雰囲気をただよわせた我国最古の庭園の一つといわれている。
また、日本三大名月観賞地であることから観月の名所として知られ、中秋の頃には観月の夕べが開催される。

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これは、内側から見た唐門(勅使門)である。

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境内に書院造の正寝殿(重文)には、後宇多天皇が院政を執った部屋があり、狩野山楽筆の襖絵や墨絵などの障壁画が多数所蔵している。
また、宸殿(重文)は徳川2代将軍秀忠と浅井長政の三女である江の間に生まれた東福門院和子が女御御殿の宸殿として使用していたものである

この宸殿の襖絵は狩野山楽筆の牡丹図・紅白梅図(重文)などである。

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安井堂(御霊殿)の天井画。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-09-23 22:55 | (仏閣)京都のお寺 | Comments(2)

Commented by toshi at 2013-10-23 07:42 x
江戸末期に無住となった時期があるとは現在の賑やかさ 整備された寺域からは想像も付きません 二度ほど参拝をしていますが あまり深い印象を持ちませんでした これを機にもう一度参拝してみたいと思います
Commented by mo-taku3 at 2013-10-23 09:51
大覚寺では、11月いっぱい“菊花展”をやっています。結構盛大です。
前にも話したことがあったかと思いますが、私の華道(嵯峨御流)の家元がこの大覚寺で「華道総司所」と言います。
そんな関係上、こことは結構縁があります。
私は、学生時代ここに泊ったことがありましたが、その頃は世間からあまり注目されず、整備もあまり行き届いておらず、公開もしていなかったように思います。
しかし現在では結構商売気を出して活動し、他のお寺並みになったように思います。
昭和40年代前半に味岡さんという住職がおられいろいろ改革をやられていたのを思い出しました。
しかし結果的に内紛が起こり潰されてしまったようでした。
しかし、今をみると改革の芽は脈々と、という感ですね。
今回びっくりしたのは、写真にもある通り、国宝級のものがさりげなく置かれ、しかも写真も撮れるというのは最高ですね。
そのうち写真禁止となるのではないかと思い、今がチャンスなので近いうちにまた行ってみたいと思ってます。