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鎌倉幕府討幕を勢いづけた『千早城の100日戦』址は・・・。

鎌倉幕府討幕を勢いづけた『千早城の100日戦』の址は・・・。


千早城(ちはやじょう)は、大阪府南河内郡千早赤阪村大字千早にあり、国の史跡に指定されている。
鎌倉時代末期より南北朝時代に存在した楠木正成の城で、四方を絶壁に囲まれ要塞堅固を誇ったといわれる連郭式山城である。楠木七城の一つ。
楠木七城とは、千早城・下赤坂城・小根田城(上赤坂城の一部)・桐山城(上赤坂城の一部)・烏帽子形城・龍泉寺城(嶽山城)・金胎寺城の七つの城を言う。)

千早城は、昔から交通、軍事の要衝であった千早街道から登り、金剛山の西にある尾根の先端に築かれた山城である。周囲が約4kmで千早川の渓谷を利用し、北には北谷、南東には妙見谷、東は風呂谷があって、四方の殆どを深いに谷に囲まれ、城の背後のみが金剛山の山頂に連絡する要害の地である。
金剛山の山頂は標高1125m、城の最高所の標高は673mとなっている。
北条軍の大軍を引き受け、楠木正成が奇策を用いて釘づけにした、世にいう『千早城の100日戦』の舞台となったところである。

1331年(元弘元年、元徳3年)に鎌倉幕府倒幕計画が発覚すると、その中心人物である後醍醐天皇は笠置山に挙兵し、楠木正成は河内赤坂において呼応している(元弘の乱)。
鎌倉幕府は討伐軍を派遣して鎮圧し、後醍醐天皇を隠岐島で流し、関係者も処罰されたが、正成は翌年にも千早城に拠り抵抗を続けた。
幕府方は、上下赤坂城を落とした後、楠木正成のわずか1,000人の兵でも正成が抵抗を続けられたのは、石や丸太を崖から落としたり、鎌倉側の兵に油をかけ火を放った、などの奇策を使ったからだといわれる。また、この情勢を見た地元の土豪などが、正成の軍に味方し、幕府軍を挟み撃ちするような状態になったとも伝えられている。

千早城は金剛山の尾根を利用した細長い山城である。
この地図にもあるように、登ってみるとその通りである。

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国道からの入口には、駒札などの説明が書かれている。
また階段のすぐ脇にも「日本百名城」の一つとある。

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登ろうとして上を見ると、止めようか?と思えるくらいの急な階段が続いている。

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どこまで行ってもこんな感じで、休み休み登るしかない。

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このような階段を500数十段を登ると、四の丸の手前に最後の階段がある。

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四の丸が一番大きな敷地になっている。
兵数1,000人と太平記に書かれているが、実数は500人を切る規模ではないかと思われる広さである。

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階段上の四の丸からはこのような素晴らしい眺めとなっている。

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城郭の脇によってみるとかなりの急角度の斜面となっている。

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三の丸への階段がある。
ここも登り口が狭く、段差もかなりある。(うまく高低差を利用しているのがわかる)

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三の丸はそれなりの広さがあり、「史跡 千早城址」の石碑が建っている。

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二の丸への階段を上ると、そこは千早神社になっている。
地図には本丸跡はもっと上のほうだが、ここには本丸跡の表示も見える。
まだ新しい社である。

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二の丸跡にある、千早神社は未だ新しい感じがする。
この神社はしっかり整備されており、作りもなかなかモダンな感じがする。

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この石碑を見ると、住友家や宮内省の寄進があったようだ。しかし、これも戦前ののようだ。
最近はどのように維持されているのか、心配である。

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(千早城の戦いと時代背景)
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけては市街戦や山岳戦が中心の戦となっていった。
そうなると徒立ちで刀や弓矢で戦う、徒歩斬撃戦に騎馬隊が続くというのが主流になってきた。
しかし、山上に築かれた城への攻撃となると、馬は有効に使用できない。この戦い以前は、本格的な攻城戦は数が少なく、山城への攻撃となると「赤坂・千早城の戦い」が初めてに近い。籠城側は、弓を射かけ、石や木を投げつけるのに対して、攻城側は城壁を目指しひたすら攻め登るか、水の手を切るか兵糧攻めによる持久戦しかなかったが、城内に水源があった千早城は鎌倉幕府軍に対して落城することはなかった。





この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-10-06 22:47 | Comments(2)

Commented by toshi at 2013-10-23 07:10 x
皇居一周が5km位と云われていますから 相当な広さですね 僅か500人で守れたのが不思議です
構造は小谷城などと似ているようですね 先日竹田城から歩いて降りただけで足を痛めてしまい(往路は駐車場までTaxi)この階段を上る自信はありません 拓さんの写真で我慢します
Commented by mo-taku3 at 2013-10-23 08:28
竹田城に行かれたんですね。確か駐車場から麓駐車場までバスが出ていたと思いますが、大変でしたね。
丁度風邪気味で体調不良で最高にシンドかったのを思い出します。
さて、ここは大変でした。が登りきった時は景色もよかったので気持ちよかったですよ。
ただこの後金剛山の方が時間がなく急いだのでもっと大変でした。
このお城跡はメンテナンスがあまりされてなくかわいそうでした。