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西国(17番)札所 【六波羅蜜寺】(京都市)20140309

西国(17番)札所【六波羅蜜寺】20140309


六波羅蜜寺 (ろくはらみつじ)は、京都府京都市東山区にある真言宗智山派の寺院で、西国三十三所第17番札所である。山号は補陀洛山。本尊は十一面観音像。そして開基(創建)は空也上人である。
踊り念仏で知られる市聖(いちひじり)空也(くうや)上人が平安時代中期の天暦5年(951年)に造立した十一面観音を本尊とする道場に由来しており、当初は西光寺と称していた。
空也上人は疫病が蔓延していた京都で、この観音像を荷車に乗せて歩き、念仏を唱え、病人にお茶をふるまって多くの人を救ったといわれている。
空也上人の死後、977年に比叡山の僧・中信が中興して天台別院とし、六波羅蜜寺となった。
平安末期のこの付近は、平氏一門の屋敷が6,000個あったいわれ、平清盛は六波羅殿と呼ばれていた。
また平氏が滅亡した後、鎌倉幕府によって平氏の地盤だったここに六波羅探題が置かれている。
六波羅蜜寺の由来は、仏教の教義「六波羅蜜」という語(ことば)に由来するが、この地は古来「六原」と称したことに由来するとも考えられてらしい。 現在もこのあたりは六原(ろくはら)といい、六波羅密寺の近くに「六原商店街」がある。
江戸時代までは大伽藍であったが、明治維新の廃仏毀釈を受けて大幅に寺域を縮小されてしまった。現在、境内は狭く主な建物は本堂(南北朝時代、重文)と弁財天堂、宝物収蔵庫などである。

通りに面した「鉄門」がある。普段、ここは閉まっていて入ることはできない。
後ろに見えるのは本堂である。

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お寺に入ってすぐの左手に「総受付」の表示がある。
入山料はなく、出這入りは自由である。

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本堂は、外陣を板敷きとし、蔀戸で仕切られた内陣を一段低い四半敷き土間とする天台式建築で貞治2年(1363年)の再建である。


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奥に、弁財天堂がある。


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弁財天堂の奥には、「水掛不動尊」と「銭洗弁天」が祀られている。


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入って正面に「日本最古 都七福神ノ一」と書かれたお堂がある。
表札にあるとおり、日本最古の七福神(京都)とのこと。
以下はその七福神でどれも立派な像である。
「ゑびす神(ゑびす神社)、大黒天(松が崎大黒天)、毘沙門天(東寺)、弁財天(六波羅蜜寺)、福禄寿神(赤山禅院)、寿老神(革堂)、布袋尊(万福寺)」


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境内に二つの塚がある。どちらの塚も、鎌倉時代に造られたも。
右は歌舞伎の演目にもなっている「阿古屋」の塚。
「阿古屋」とは、
「平家の残党狩りをしようとする源氏方の代官が、平家の武士を恋人にもつ遊女・阿古屋を捕らえ、尋問するが、それには一切答えず、また、弾かされた筝(こと)の音にも乱れが全く無かったため、結局釈放された。歌舞伎では、平家の侍・悪七兵衛星景清の恋人の遊女「
阿古屋」であり、歌舞伎の「出生景清」「壇ノ浦兜戦記」の場面「阿古屋の琴責め」に描かれている。」という物語である。
「阿古屋」の説明碑の横には、「奉納 五代目 坂東玉三郎」の奉納石碑が建てられている。



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左には「平清盛公の塚」と書かれた塚がある。
これは勿論平清盛を祀ったもので、六波羅の地が平家の本拠地だったことを示しているようだ。



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境内の片隅には、栄華を誇った平氏を偲ばせる小さな石碑が建てられている。


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六波羅蜜寺のすぐ近く、松原通(旧五条通)と大和大路の交差点。六波羅蜜寺を示す「西国三十三ヶ所第十七番札所」の碑(左)と共に、「六道の辻」の碑(右)が立てられている。
ここはかつて鳥辺野の葬儀場へ通じる入口とされ、まさに「あの世とこの世の境目」となっていた。

近くにはあの世への入り口(死の六道)がある、「六道珍皇寺」があり、小野篁(平安時代の冥界の役人だったという)が閻魔堂に祀られている。

入口があれば出口がなければならないが、六道珍皇寺があの世へ入り口ならば、この世への還り口は上嵯峨の六道町にあった福生寺です。
この世への還り道(生の六道=福生寺の遺仏・薬師寺)
が存在している。
六道珍皇寺があの世へ入り口ならば、この世への還り口は上嵯峨の六道町にあった福生寺。しかし、この寺は明治の初めに廃寺となった。
かつての福生寺には小野篁作と伝える「生六道地蔵尊」と「小野篁像」が祀られていた。現在、それらの遺仏は、嵯峨釈迦堂(清涼寺)の境内西側にある薬師寺に移され安置されている。


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「御朱印」(御詠歌)。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-03-09 16:04 | 西国三十三ヵ所 | Comments(2)

Commented by toshi at 2014-03-13 08:05 x
改装前の六波羅蜜寺はごちゃごちゃして狭苦しいお寺でしたが好きなお寺でした 当時(学生時代)は観光客も少なく 一遍上人像 清盛像 閻魔大王位しか記憶にありません 朱印の字ももっと流暢でした 
六道の辻 地獄の入り口と出口は一緒と思っていましたが違うんですね 距離にして約10km 京都の町を横断しているのが面白いです
Commented by mo-taku3 at 2014-03-13 08:31
行ってみて、そしてブログに載せるために資料を調べると、知らなかったことが色々出てきます。
それがまた楽しい。
入口と出口がこのようになったいきさつを知りたいですね。