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尼子家の復興に奔走した猛将『山中鹿之助』20140923

尼子家の復興に奔走した猛将『山中鹿之助』20140923


山中鹿之助は、戦国時代から安土桃山時代にかけての山陰地方の尼子氏の家臣。。実名は幸盛(ゆきもり)、幼名は甚次郎(じんじろう)という。
優れた武勇の持ち主で「山陰の麒麟児」の異名を取る。尼子十勇士の筆頭にして、尼子家再興のために『願わくば、我に七難八苦を与えたまえ』と三日月に祈った逸話は有名である。

山中鹿之助は忠義の臣ということで、戦前の教育でもてはやされていたのを、戦前の教科書などを目にした時強く印象が残っている。
ここ本満寺と鹿之助との関係は定かではないが資料によると、、
「1764年5月22日、鹿之助の子孫である山中永辰と山中一信によって建立されたとある。」

鹿之助の墓は本堂脇の墓所中央に位置し、周囲には山中一族の墓碑があるがすでに無縁墓碑状態といっていいかんじで、石も悪いのか風化が進んでいる。
また、墓標の裏面には、次のように記載される(原文は漢文)。
「尼子忠臣山中幸盛、幼きより勇彊にして、軍鋒の魁たり。年三十(四)にて備中阿部に戦死す。実に惟れ天正六戌寅五月廿二日也。子(孫)山中永辰、同一信、相與に謀り、樹石を広宣し、流布山本願満足寺に奉り、先ず本に報じ、以て無窮に示す。 宝暦十四年歳舎甲申五月廿二日 当山丗七世日視誌す」。
宝暦十四年とは、1764年であるので、江戸時代の中頃に建てられたようである。

私の恒例の京都市内の散策で、「山中鹿之助幸盛御墓所」の石標がが目に入ったので寄ってみた。

本満寺というお寺である。
1410年本圀寺(日蓮宗)から分離独立し、玉洞妙院日秀(関白・近衛道嗣の子)が開基とされている。
その当時は上京区元本満寺町(新町通今出川上る西入)付近にあったが1536年天文法華の乱で焼失し、堺に避難する。
寺伝によれば、それから間もない1539年、関白近衛尚通が現在の地に移建し、後奈良天皇の勅願寺となるという。ということでお公家さんのお寺という感じがする。
その後、1751年徳川吉宗の病気平癒を祈願し、幕府祈願所ともなっている。

このお寺は、広大な寺域を誇っていたようだが、今でもそれなりの敷地である。

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墓地にはいると直ぐの右手にこのお墓がある。
案内の表示は全くない。近くに居た墓守の人に尋ねると、親切に御案内いただいた。
そこでお墓の歴史・お寺の歴史など一通りご説明いただき、今の鹿之助のお墓・一族のお墓に墓主のお参りがないことを嘆いておられた。
一時的にもてはやされてお墓を作ったものの、重荷になって無縁化していくのは、歴史的な有名人であっても同じなんだとちょっと考えさせられた。

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先にも述べたように、お公家さんのお寺だが、今では大徳寺やそれぞれの菩提寺などに移ったのと、東京遷都で冷泉家を残してお公家さんが東京に墓地とともに移ったようで、古い墓標が山のように一か所に片づけられていた。

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この日は彼岸だったので、本堂では沢山のお参りがあった。

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山中鹿之助の墓所・供養塔・首塚はたくさん存在しているのでご紹介します。
・阿井の渡しの墓(岡山県高梁市落合町阿部)
・観泉寺境内の墓(岡山県高梁市落合町阿部)
・大徳寺玉林院内の墓(京都府京都市北区紫野大徳寺町)
・金戒光明寺金光院内の墓(京都府京都市左京区黒谷町 )
・幸盛寺内の墓(鳥取県鳥取市鹿野町鹿野)
・巌倉寺内の供養塔(島根県安来市広瀬町富田)など沢山の供養塔がある。
・静観寺山門前の首塚(広島県福山市鞆町後地)
・徳雲寺境内の首塚(広島県庄原市東城町菅)
・浄教寺内の供養塔(広島県広島市西区草津本町)
・末吉城跡の供養塔(鳥取県大山町末吉)
・忠山砦跡の供養塔(島根県松江市美保関町)





この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-09-23 11:46 | (歴史)全国史 | Comments(3)

Commented by toshi-ohyama at 2014-10-10 07:06
阿弥陀寺から寺町通を更に下って行くとこの本満寺があり 私も山中鹿之助墓所の石碑を見付けましたが墓地まで入らずに戻ってしまいました 日蓮宗のお寺は信長時代に安土宗論等弾圧を受けて居る筈ですが今も市内に随分残って居ますね 子孫が絶え無縁となってしまった墓地と遺骨は土に還ることになりますが墓石は残ってしまう このお寺のように土手代わりに並べられているのはまだ良い方かもしれません 無縁化する前に子孫がきちんと始末して置きたいものです 山中鹿之助に係わる墓所供養塔が此れほど沢山有るというのは興味深いです 信長に見捨てられた尼子家を信長批判に利用したのではと推測するのは考えすぎでしょうか 尼子義久も同じように供養されているのでしょうか
Commented by mo-taku3 at 2014-10-10 13:25
とりあえず、義久のお墓情報です。
http://blogs.yahoo.co.jp/ikatsu2002/31825398.html
Commented by mo-taku3 at 2014-10-13 15:36
尼子家は地元では人気があります。
室町時代は大内家と肩を並べていたくらいですが、地方のことなのであまり大きく取り上げられませんでしたが、明治以降急速にもてはやされています。戦前教育でも中心的な位置付けだったようです。
子孫(弟)は鴻池財閥を起こしており、鹿之助も一時ここに避難していたこともありました。