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日本最古神社一つ『奈良大和(おおやまと)神社』20140927

日本最古神社一つ『奈良大和(おおやまと)神社』20140927


崇神天皇の御世に、大物主の神託によって、「大三輪神」と「大国魂神」の2つの神が出現した。
このとき、大物主は三輪山の神だったこともあり、「大三輪神」には大神(おおみわ)神社、「大国魂神」は従来から存在していた大和(おおやまと)神社の主祭神に充てられている。
この背景を話すと長くなるが、記録として残したいのでかいつまんで一説を私見を加え述べたいと思う。

第10代崇神天皇の御世の前までは、天皇(この呼び名は天武朝の頃に付けられたもの)とはいっても一個の豪族に過ぎず、大王(おおきみ)と呼ばれ、豪族の中でも少しばかり権威があったようである。
大王と呼ばれる一族は、他の有力な豪族である葛城氏や物部氏などとの姻戚関係で勢力を保っていたようだ。
ここで誰もこのことを疑問に思っているとは聞かないが、天皇家には他の氏族と異なり、“XX氏という苗字がない”。というのは、何か特別の存在だったのではないかというような気もする。ということは最初から崇められた存在ではなかったのかと思えてくる。
即ち農耕民族特有の世襲制の長(おさ)だった感じなのかもしれない。
しかし、単独では成り立たずこの長に従った氏族が、内から生まれたものと、外から取り込みを行ったものが出てきている。
ここで外からの氏族を3つに分類して捉えると氏族の動きがわかってくる。
①この地に古くから住みついている居る氏族;葛城氏系氏族、蘇我氏、伴氏など
②北(愛宕郡・春日)、西、東の周辺に居た氏族;春日氏、小野氏
③離れた他の地域の氏族、渡来系の氏族;物部氏、秦氏
なるであろう。  

ここで、大和(おおやまと)神社が日本最古といわれる所以を推理してみよう。
大王の内なる氏族に倭(やまと)氏という小さな氏族(異説はある)があり、これがこの大和(おおやまと)神社を守っていたようだ。
一説によると、初期ヤマト政権発祥の地といわれている「纒向遺跡」の構築に倭氏がおおきく関わっていたといわれているように、初期ヤマト政権では重要な地位にあったようである。
その倭氏が日本最古といわれる、大和(おおやまと)神社の守り主だったのではと思われる。
しかしその後、大王家が大きくなり大三輪氏と接するようになると、大三輪神社(大神(おおみわ)神社)を大王とともに祀るようになったようである。
いつしか、倭氏が消えて行き、大和(おおやまと)神社も主役ではなくなっていったようである。


大和神社は大神神社出現の後、天皇からの援助が乏しくなり、また、火災など紆余曲折を経たのち現在の姿に復元されている。
また、「大和大国魂神」は、倭姫に伊勢神宮の千木や鰹木の由来も指導されている。
こうして、大和神社には神が人体をもって現れた時代の天之沼矛の神格化である「大和大国魂神」の神名だけが留まることになったようだ。


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戦艦大和の石碑が建てられていた。
戦艦大和には、大和神社の分霊が祭られていたそうです。
となりの祖霊社には、戦艦大和が撃沈した時の殉死者2736名の御霊が祀られている。

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増御子神社
(祭神)
猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)天鈿女命(あめのうずめのみこと)
(由 緒)
猿田彦大神は、ものごとの一番最初にご出現になり、万事最もよい方えお導きになる大神です。
古事記・日本書紀などにも、わが国のはじめ天孫瓊瓊杵尊(ににぎのもこと)をこの国土へご啓行になられたと伝えています。
このご神徳によって、全国各地のご祭礼に際しては一番先頭に大神を仰いで渡御祭にも先駆する天狗が猿田彦大神です。「さき立ちの神」「さきみちの神」「ひらきの神」として、氏子・崇敬者の将来の繁栄と開運成就をお授けくださいます。
学業成就・家業繁栄・交通安全・開業・移転災除等、諸願成就にご神徳顕著です。
境内の案内板より


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神(たかおかみのかみ)と三輪山とは何らかの深い関係があったようだ。
高龗神社 祈雨神祭について 全国総本社
大和神社の摂社である。祭神は雨師大神即ち水神様で、崇神天皇のとき渟名城入姫命をして穂積長柄岬(現親泉星山)に創祀される。
古来六月一日、十年に一度の大祭には、和歌山・吉野・宇陀その他近在邑々から千人余りも参拝者の列が続いたとある。
先頭に丹生川上神社、中・下社が金御幣を持ち後尾は末社の狭井神社が勤めた。
茅原上つ道を経て箸墓裾で休憩。大倭柳本邑に入り長岡岬、大市坐皇女渟名城入姫斎持御前の井戸で祓い清める。
神職は輿と共に神橋を渡り大和神社に入る。一般の人達は宿から一番鶏が鳴くと倭市磯池に体を清め笠縫邑から神社へ向かう。
社は古代伊勢神宮と同じ建築様式で江戸時代の建立になる。
昭和二十五年の台風により被害を受け半壊する。        (境内の案内板より)


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***この時代の歴史的な背景と謎解きに挑戦してみたいと思う。***

崇神天皇が崩御され、喪りが済んで公表された時に、「御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)と称す」と発表されている。
ということは、神武天皇も始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称されることから、神武天皇が即位したとされる橿原宮の時は、まだ勢力が小さく葛城氏の保護下あったのではないかと思われる。
結構な年月をかけて、三輪山の麓に至り、崇神天皇という天皇の出現で一気に大王の地位が出来上がったようにおもえ、それで大和朝廷のきばんができたことが、、「御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)と称す」ということになったのではないか。
(ちなみに神武天皇が即位した橿原宮と橿原神宮は直悦的には関係なく、橿原神宮は明治時代に造られたまだ新しい神社である。)

そこで大神神社と大和神社とで不思議な構図が存在してくる。
崇神6(天鈴626)年9月16日夜、大国魂神を大和神社へ遷宮され、崇神6(天鈴626)年9月17日夜、天照神を檜原神社(ひばら)へ遷宮されている。
第2代大物主の奇彦命の神託によって、崇神7(天鈴627)年10月1日、大田田根子命が大三輪神の斎主、長尾市命(ながおいち)が大国魂神の斎主に任命された。
この第2代大物主の奇彦命の神託によって、「大三輪神」と「大国魂神」の二重化が発生したわけである。
その後、「大三輪神」は大神(おおみわ)神社、「大国魂神」は大和(おおやまと)神社となり、はっきり出雲系色を消そうという行為がみられる。
というのは大物主神は元々出雲神である。これを二神に分けて、天照神は正当なながれといっている気がしてならない。
その後、疫病など半数以上の人無くなったのを機会に、大田田根子命なる神が、日向の国から大物主(出雲神)の子孫として招かれて三輪山に祀られたている。
出雲神を祀って災難を鎮めるということは、過去出雲族へ何らかの意図的な行為があったからであろう。
このことの意味するところを考えてみると、元々大和の地にいた出雲族が祀っていた神をはっきりを崇め直すことを意味しているのではないかと思えてしょうがない。
いずれにしろ、出雲族の存在を研究していくことが必要と感じる。

余談だが、あまり知られていないが、これと同じようなことが伊勢神宮でも起きている。
伊勢神宮は元々内宮だけであった。
丹後一宮の籠神社(このじんじゃ) は元伊勢といわれているが、この元伊勢とは天照神が鎮座していた神社である。天照神が伊勢神宮におさまるまで、24か所の神社を渡り歩いており2番目におられた神社である。
疫病続きの災難時に伊勢神宮の外宮に籠神社(このじんじゃ)の「豊受大神」を招いて災難を鎮めたようである。この豊受大神は何者かという議論はあるが、やはり出雲神ではなかろうかとおもう。







この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-09-27 17:54 | (寺社)関西の神社・仏閣 | Comments(0)