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職場がきっかけとなった『平安京史蹟めぐり』20140924

職場がきっかけとなった『平安京史蹟めぐり』20140924


私が勤めている会社が平成24年の秋まで駅の近くにあった。(というのは今は南の方に写っているが。)
勤め始めた時はさほど気にならなかったのだが、直ぐ近くの神泉苑に行ってから、歴史好きが頭をもたげて「平安京の史跡巡り」へと繋がっていった感じである。

さて、会社の住所は京都市中京区「西の京職司町」というが、変わった名前だな位に思っていた。また織物産業が盛んな町なので名前から言うと関係があるのかな、とも思ったりしていたが、だんだん近くを散策していると沢山の史蹟に遭遇するようになってきた。
平安京とは(殆どの方がご存じとは思うが)、桓武天皇が794年に長岡京から遷都した現在の京都である。
それ以来、東京に遷都されるまで1000年以上続いた日本の都であったところである。
多くの人は現在の京都御苑(京都御所跡)が当初からの御所と思われがちですが、実は朝堂(大極殿)があったところはもっと西にあったことが遺蹟からわかる。
そのことを解説した説明が「JR二条駅」にあり、それがこれである。

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ほんとにJR二条駅のすぐ前である。

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直ぐ横に「千本通り」がはしっている。
実はこの通りが、「旧朱雀通り」であり、JR二条駅の辺りに『朱雀門』があったとされる。ということなどがここの説明板に書かれている。
ということは、朱雀通りは80m幅の大路だったとあるから、今は場所によっては通がないところもあり、大体の幅も20m位なところから、どうしてという疑問がわいてくる。
色々調べてみると、京都の街は戦乱や火事に見舞われ、大火が何度もあったということであった。
また豊臣秀吉による区画整理もあったとある。
しかし、今路が細くなっているのは、当時としては殆ど大火の後の不法占拠であったように思われる。

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さて、大極殿があった場所はというと、千本丸太町北西角の奥に公園があり、そこにひっそりと「大極殿」の石碑が建てられている。
一時(明治維新の後)、大極殿再建が考えられたそうだが、結局敷地の問題などから京都万博に合わせて京都万博の地(現在の平安神宮)に、8分の5のサイズで建てられることになったとのことである。(現在は平安神宮として存在しており、平安宮の朝堂院を模写しているようだ。

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朱雀門・大極殿があった場所を中心に近所を散策すると、平安京朝堂院の場所が広範囲にわたっていることわかり、以下にそのほんの一部を紹介させていただくことにする。

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*桓武天皇(かんむてんのう)が平安遷都された経緯。
784年、仏教勢力の強い平城京を離れて新しく「長岡京(ながおかきょう;京都府長岡京市)」に遷都。
しかし翌年の785年、長岡京の造営の責任者であった「藤原種継(ふじわらのたねつぐ)」が何者かによって暗殺された。
犯人は「大伴継人(おおとものつぐひと)」「大伴竹良(おおとものちくら)」と判明、2人は直ちに捕らえられ処刑されます。
しかし、実行犯の2人の尋問の結果、主犯(※)は「大伴家持(おおとものやかもち;有名な歌人)」で、これを桓武天皇の実弟で皇太子である「早良親王(さわらしんのう)」に報告後、実行したとの言質を得た。
結局、黒幕が皇太子である早良親王と言うわけで、早良親王は捕らえられ「乙訓寺(おとくにでら・京都府長岡京市)」に幽閉されてしまう。
事件の黒幕にされた早良親王は、自分の無実を訴えながら、身の潔白を証明するため断食を決行するが10日余りの後に淡路島への島流しが決定、淡路島に護送中の淀川沿いで餓死してしまう。(785年)

早良親王が死んで皇太子が不在になったので、皇太子は11歳の長男の「安殿親王(あてしんのう)」をとし、引き続き長岡京造営を進めていく。

しかし、788年に桓武天皇の夫人が亡くなったのを皮切りに、790年には皇后が亡くなり、皇太子の安殿親王も病気となり、また伝染病がはびこり、更に大飢饉まで発生する。しかもその上、造営中の長岡京が2度も水害に見舞われる。(792年)と災難続きであった。

このような状況下、桓武天皇は和気清麻呂の進言を取り入れ、造営中であった長岡京を諦めて新たに都を造営する場所を山背国葛野郡宇太村(やましろのくにかどのぐんうだむら・現在の京都市)に決定、早速造営を開始させた。
そして、794年、造営中の新都を「平安京(へいあんきょう)」と名付け、長岡京から遷都する。

※しかしそれにしても暗殺計画の主犯といわれた大伴家持が暗殺の二十日ほど前に亡く なっている。
 なのに暗殺が実行されたとみなされたのは、陰謀としか映らないのでは。





この項 <完>

by mo-taku3 | 2014-11-11 11:23 | 歴史散歩 | Comments(2)

Commented by toshi-ohyama at 2014-11-20 08:42
京都市考古資料館に 平安京復元模型があると聞き訪ねてみたのですが 肝心の2階が閉館で見られませんでした 朱雀門の跡も小さな石碑が一本あるだけと聞きました 
長岡京が僅か10年で遺棄され平安京に遷都される経緯は 何か納得出来ないものを感じます 特に早良親王に付いては桓武天皇の疑心暗鬼による抹殺と思えてなりません 
Commented by mo-taku3 at 2014-11-20 13:40
そうですか、京都市考古資料館に模型がありますか。行ってみたいですね。
朱雀門跡の石碑はまだ見てません。今度探してみます。
桓武天皇の疑心暗鬼と藤原氏の内部抗争が重なった結果だと思ってます。
長岡京を遺棄した原因は自然環境の問題が大きかったのではと思いますが、それ以上に桓武天皇の意を汲んだ、和気清麻呂の神がかり的な説明が効いたのかもしれませんね。
科学が進んでいない時代ですから、災害・風俗・伝染病・風言など何でも祟りと捉えたのでしょうね。