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面影を残す平安京の禁裏だった【神泉苑】20150408

面影を残す平安京の禁裏だった【神泉苑】20150408


神泉苑の解説によると、
神泉苑は、平安京(大内裏)の南東隣りに位置し、八町の規模を有する苑池であり、禁苑とされています。
苑内には自然を取り込んだ大規模な庭園が造られており、敷地の北部には乾臨閣を主殿とし、右閣、左閣、西釣台、東釣台、滝殿、後殿などを伴う宏壮な宮殿が営まれていた。
地下鉄東西線建設に伴う発掘調査によって、大池の北岸、泉から池に流れ込む小川(遣水)など庭園の北部を検出しています。
ここでは、船着き場の足場板を検出状況に即して復元展示しています。
平安時代初頭頃には、苑池での管弦の宴などに用いられた竜頭鷁首の舟などが着き、貴族たちが南庭へと下り立ったものと想像されます。

また、天長2年(824)淳和天皇の勅命により弘法大師空海は神泉苑の池畔にて祈られ北印度の無熱池の善女龍王を勧請され、日本国中、雨が降り、人民が大いに喜んだという。
これ以降神泉苑の池には善女龍王がお住みになっているといわれている。

またまた、祇園祭の始まりは神泉苑からである。
貞観5年には疫病が大いに流行り、神泉苑にて御霊を鎮めるため御霊会が行われた。
全国の国の数、66本の鉾を立てて、神泉苑の池にくりこみ、厄払いをしたことで、後世には、これが町衆の祭典として、鉾に車を付け、飾りを施して京の都を練り歩く、祇園祭となった。

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神泉苑には、珍しい回転する恵方社がある。
大晦日の夜、寺の住職ら数人で社を持ち上げ、時計方向に回して来年の方角に据え置かれます。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2015-04-08 10:48 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)

Commented by toshi-ohyama at 2015-04-27 08:08
一度訪問した時には それ程規模も大きくなく 西側の料亭の商売っ気に嫌気がさし 通り過ぎてしまったことが有りますが その後拓さんに由緒を教えて頂き 今一度見直さなくてはと思っています 
Commented by mo-taku3 at 2015-04-27 15:20
以前、私が勤めている会社がこの近くにあり、住所が「西の京職司町」と言いました。この由来は、
「平安京大内裏の内側や近接した所にあった役所の名前に由来するとのことで、
職司町は平安京の司法・警察などを担当した京職(きょうしき)という役所だったそうです。
他には「左・右馬寮」が朝廷行事で使う馬の飼育を担当する部署。「式部」が大内裏南端にあった朱雀門の東に位置した役所で、文官の位記、礼儀など人事一般をつかさどる役所。」
などの町名があり、朱雀門の近くにあったそうです。
この神泉苑は皇室の庭園(禁裏)があったところで大きく二条城も含む広さだったそうです。
ただ今の二条城が造られた頃は度重なる火災や、応仁の乱などの戦乱により荒れ果てていたそうです。
それでも地下鉄東西線の工事が行われた時往時を彷彿とさせる遺跡が発掘されたそうです。