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西国(25番)札所「清水寺」(加東市)20150530

西国(25番)札所「清水寺」(加東市)20150530


清水寺(きよみずでら)は兵庫県加東市にある天台宗の寺院で京都の清水寺と区別するため播州清水寺と通称よばれる。
山号は御嶽山。本尊は十一面観世音菩薩で秘仏となっている。
寺伝では1,800年前(古墳時代)、天竺(古代インド)の僧、法道が創建したとされ、627年(推古天皇35年) に推古天皇直々に根本中堂を建立している。
さらに725年(神亀2年) 聖武天皇が行基に命じて講堂を建立したと伝える。

法道は天竺から紫の雲に乗って日本へ渡来したとされる伝説上の人物である。
朝鮮半島から日本へ仏教が伝来したのは6世紀のことであり、「1,800年前に法道が創建」との伝承は後世の付託であろう。
法道開基を伝える寺院は兵庫県南部に集中していることから、「天竺から紫の雲に乗って」云々はともかくとして、その由来につながる仏教者がこの地に存在したことが想定される。

1913年(大正2年)の山火事で全焼し、現存の諸堂はそれ以後の再建である。
本堂にあたる根本中堂の本尊十一面観音像は秘仏。大講堂本尊の千手観音坐像(大正時代作)は秘仏でなく拝観可能である。西国三十三所の札所本尊は大講堂の千手観音像である。

山門。この前は大きな駐車場となッているが、下からここまで上ってくるまでがかなりの距離となる。

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薬師堂があり、堂内は薬師如来を囲んで十二支が囲んでいる。

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大講堂

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鐘楼があり、鐘は手前に引いてつくことができる。

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根本中堂(本堂)

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大塔(多宝塔)跡。

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時期外れのシャクナゲが見事に咲いていた。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2015-05-30 11:05 | (巡礼)西国三十三ヵ所 | Comments(6)

Commented by toshi-ohyama at 2015-07-14 07:29
西国三十三カ所の西は兵庫まで広がるんですね 平安期以前にこのような山奥まで巡礼地が広がって居たことは驚きです 
Commented by mo-taku3 at 2015-07-14 10:40
西国三十三ヵ所の歴史と始まりについて詳しく載ってました。
(西国三十三ヶ所巡礼のはじまり )
西国三十三所巡礼は奈良時代の718年、大和国長谷寺の開基である徳道上人が62才のとき病気にかかり、生死の境をさまよっていた際、冥土の入口で閻魔大王にであった。閻魔大王が言うには、「最近地獄に落ちるものが多い。娑婆には三十三の観音霊地があるので、これらをすべて巡れば地獄に落ちないことにする。」とのこと。「その証がほしい」と徳道上人が言うと、「ここに三十三個の宝印がある。これを集め、それでもなお地獄に落ちるものがあれば、代わって責め苦を負おう。」と大王は請願したという。このようにして、悩める民衆を救うために、三十三カ所の観音霊場を広めてほしいとの託宣を受けるとともに起請文と三十三の宝印を授かり現世にもどされたという伝説に始まる。人々はこの話を信じなかったため、徳道上人は機が熟すのを待つこととし、授かった宝印を摂津国中山寺にある石の唐櫃に納めた。
それから約270年近く経った平安時代、花山法皇が紀州国那智山で参籠していたとき、熊野権現が姿を現し、徳道上人が定めた三十三観音霊場を再興するよう託宣受ける。そして、中山寺で宝印を探し出し、播磨国書写山圓教寺の性空上人の勧めで河内国石川寺(叡福寺)の仏眼上人を先達として霊場を巡行したことで西国観音霊場が復興された。その後、庶民の煩悩や苦しみを取り除き、救ってくれる観音信仰が広がり、江戸時代には伊勢参り、熊野詣と並ぶ大きな信仰となり、今日に至っている。

札所寺院のうち、善峯寺(二十番札所)は法皇没後の長元2年(1029年)の創建である。また、花山法皇とともに札所を巡ったとされる仏眼上人は、石川寺の聖徳太子廟の前に忽然と現れたとされる伝説的な僧で、実在が疑問視されていることから、三十三所巡礼の始祖を徳道上人、中興を花山法皇とする伝承の全てが文字どおりの史実とは考えがたいが、三十三所の札所寺院はいずれも平安時代以前からの由緒を伝える観音信仰の場であったことは事実であろう。
Commented by mo-taku3 at 2015-07-14 10:41
(続きです)
(三十三ヶ所の成立と歴史)
前述のように、徳道上人や花山法皇の縁起が伝説であるなら、西国三十三ヶ所の札所はどのようにして決まったのだろうか。
平安時代以前までは、都に近い平地に創建されていた寺院は、平安時代には山中にも建立されにようになり、補陀落山を想像する滝や泉などのある場所を選んで観音が多く祀られるようになった。このようにして、観音が霊験を顕(あらわ)したとされる霊験寺院が誕生することになる。
そして、平安時代には、都の貴族やその妻子たちが霊験寺院に一定期間滞在する「参籠(さんろう)」が流行し、その目的は観光を兼ねた祈願がとなった。この時の参籠寺院は都に近い洛東の清水寺、近江の石山寺、大和の長谷寺、紀伊の粉河寺などで、貴族たちの喜捨(きしゃ)により寺院もうるおい、巨大化していった。
一方、修行に明け暮れ諸国を回遊していた僧(「聖」という)たちは、霊地を求めて山中を歩いた。彼らがしばしば足を留めて滞在する諸国の寺の中に、箕面の勝尾寺と瀧安寺(当時は箕面寺と呼ばれた)があった。後白河法皇が、当時、巷で歌われていた雑芸の歌を執念のように洗いざらい集めて編集した「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」の中に次の2首の今様の歌があり、聖たちの寺としての箕面の勝尾寺、播磨の書写山、熊野の那智山などが全国的に有名であったことがうかがえる。
・聖の住所は何処何処ぞ、箕面よ勝尾よ、播磨なる、書写の山、出雲の鰐渕や日の御崎、南は熊野の那智とかや
・聖の住所は何処何処ぞ、大峰・葛城・石の槌、箕面よ勝尾よ、播磨の書写の山、南は熊野の那智新宮
そして、このような市中の霊験寺院や山中にある「聖の住所(じゅうそ)」を結んで、初期の巡礼の場所が形成されていったものと考えられる。
ただし、札所は寺の本堂、本尊にこだわらず、観音と縁の深い堂宇が選ばれ、札所となったもの思われる。
Commented by mo-taku3 at 2015-07-14 10:42
(更に続きです)


歴史的な記録に西国三十三ヶ所巡礼の記述が出てくるのは、近江国園城寺(三井寺)の僧の伝記を集成した『寺門高僧記』中の「観音霊場三十三所巡礼記」で、園城寺長吏を務めた僧・行尊(1055年 - 1135年)が、正確な年次は不明ながら(1090年ごろ)、三十三所を巡礼していると記載されているのが最初である。このときの札所は現在の札所と同じであるが、回る順番が異なっており、第一番が長谷寺、第三十三番が三室戸寺であったと記述されている。
西国三十三ヶ所巡礼の仕掛人である徳道上人が長谷寺の開基であることからすれば当然のことであろう。また、徳道上人に始まり、平安時代の花山法皇、行尊に至る300年以上の間、伝説の時期も含めて、この順序で巡礼されていたと考えられる。

その後、同じく『寺門高僧記』に記されている、後に園城寺長吏を務めた僧・覚忠(1118年 - 1177年)は応保元年(1161年)に三十三所を巡礼しており、この時の順序は第一番は現在と同じ那智山であり、第三十三番は三室戸寺であったとされている。

また、永長元年(1096年)に出家した白河法皇は12回の熊野詣でを行っているが、そのときに先達を務めたのが園城寺の僧・増誉(ぞうよ)で、西国霊場の選択には園城寺の僧侶が深く関与していると思われ、現在の33ヶ所の札所のうち19ヶ所が天台宗であることもそのことに関係していると思われる。

当初は修行の一環として巡礼も、室町時代には在家の信者が巡礼するようになり、江戸時代には、自由な旅が制限されていた時代にあって、巡礼を名目にすれば比較的容易に往来手形が発行されるということもあり、観音霊場巡礼が庶民の間に広まり、一種の観光旅行の様相を呈してくる。
そして、関東の坂東三十三ヶ所、秩父三十四ヶ所と合わせて、日本百観音といわれるようになり、関東からの巡礼者が多くなり関西の観音巡礼を「西国三十三ヶ所」と言うようになったと云われている。また、伊勢神参拝や熊野詣から巡礼を始める人が多かったこともあり、第一番を紀伊国の青岸渡寺、関東方面への帰路を考えて、第三十三番を美濃国の華厳寺という現在の順序になったと考えられている。
Commented by toshi-ohyama at 2015-07-22 08:49
長文の解説 有難うございます 徳道上人の縁起は 開祖特有の創作も感じますが普及に工作が有ったことは間違いないのでしょうね 以前長谷寺の参道からの帰り道にある発起院で徳道上人を知りました 
Commented by mo-taku3 at 2015-07-23 17:38
法起院ですね。
ここは西国札所の番外です。
歴史の正確性を問うと、誰が書いたかいつ作られたかで全く違って感じるので厄介な代物です。