春日大社①初参りと「式年造替」(奈良)20150818
奈良の興福寺南円堂に行くことになったので春日大社にも寄ることになった。
現在夫婦で西国33ヵ所巡りを行っており、この興福寺南円堂も札所となっており、ここは近場なので後回しになっていたが、残り少なくなり出かけることにした次第です。
そこで次いでではないが春日大社に行って見ようということになり、寄ることになった。
よく考えてみると家内は小学生、私は高校生以来行ったことがなく、ほぼ初めての状態といっていい。
春日大社は、現在「式年造替」(しきねんぞうたい)の真っ最中で、来年(2016年)11月までこの行事が続いている。
丁度いい時に行った感がある。
「「式年造替(しきねんぞうたい)」とは、「決まった一定の年限で社殿を造り替える」という意味です。
神様が御座所ごと遷(うつ)される事を「遷宮」といいますが、春日大社では、御本殿の位置を変えずに造り替えし、御神宝・調度品・祭器具を新調・修復を行うので「造替」といいます。」と説明書きがあった。
二の鳥居。
参道は人影が少なく更に暑さの中で日本人は少なく外人が多い。
中国人や韓国人も多く、見分け方は外国人は殆ど傘をさしていないので直ぐ分る。
神の使いの鹿の口から水が出ており、手水舎となっている。
紹介文書として、
「春日大社は今からおよそ1300年前、日本の国の安泰と国民の幸せを願い、御蓋山のふもとに壮麗な社殿を造営し、四柱の尊い神々をお祀り申し上げたのが始まりです。
以来、世界遺産に登録された30万坪の境内は古代さながらに自然が保たれ、清々しくも尊厳な国宝・春日造りの御本殿で神々様が広大無辺なる御神徳を発揮されているのは、式年造替(しきねんぞうたい)という儀式が行われてきたからです。
この儀式は、神さまがお鎮まりになる神殿や、神さまの御料で御殿の中にお納めをする御神宝などを造り替え、御修繕を行うことによって、御神威のさらに若々しく力強いご発揚を願う、日本人固有の信仰に基づいて行われるものであり、当社では創建以来ほぼ20年毎ご奉仕されてきました。
今次造替は平成19年の一ノ鳥居より始まり、平成28年の御本社御本殿の正遷宮をもって完了する予定です。」
今回も含め、過去59回と併せた式年造替(しきねんぞうたい)年表は提示されていた。
南門である。
現在は正門とされているが、従来は藤原氏以外の人の出入り門だったそうだ。
南門の満前にパワースポットとなる、「出現石」という神石
御祭神。
春日大社本殿の遥拝所。
春日大社境内図。
*大社関係資料によると、
春日大社は、今からおよそ1300年前、奈良に都ができた頃、日本の国の繁栄と国民の幸せを願って、遠く鹿島神宮から武甕槌命(タケミカヅチノミコト)様を神山御蓋山(ミカサヤマ)山頂浮雲峰(ウキグモノミネ)にお迎えした。
やがて天平の文化華やかなる神護景雲2年(768年)11月9日、称徳天皇の勅命により左大臣藤原永手によって、中腹となる今の地に壮麗な社殿を造営して香取神宮から経津主命様、また枚岡神社から天児屋根命様・比売神様の尊い神々様をお招きし、あわせてお祀り申しあげたのが当社の始まりです。
御祭神である武甕槌命様・経津主命様は、日本の国を秩序ある国にするためにあらゆる神々と交渉され、平和裡に治められた功績ある神様であります。
また天児屋根命様は神事と政治を守り導かれる神様として、比売神様は天照大御神様だとも天児屋根命様の妃神とも伝えられています。
平和と愛の尊い神様であり、それぞれの霊験を仰ぎ御加護を頂いてまいりました。この四柱の神々様は、それぞれ端正な春日造の御本殿(国宝)に鎮座されており、最も尊崇すべき神々として春日皇大神と申しあげ、また、春日四所明神、春日大明神と申しあげてまいりました。
平成10年12月には、春日大社や春日山原始林を含む「古都奈良の文化財」がユネスコの世界遺産に登録されました。
この項 <完>
by mo-taku3 | 2015-08-18 12:50 | (寺社)関西の神社仏閣 | Comments(2)
その後天皇家と深い姻戚関係を保ち、連綿と表舞台に立ち、明治天皇・昭和天皇も藤原の申し子のごとく神社の建設などに携わってきています。
今でも文部省に藤原氏の直系が顧問でいると聞いています。
藤原氏が最も敵としたのが武士で、隙あらばと藤原の世を託されたのは、後醍醐天皇であり明治天皇だったのだろうと思ってます。
また昭和天皇が屈辱の象徴になったのも、血筋を残し後世に藤原を残したと云っていいのではないかと思います。
今の安倍政権を見ますと、いつの日か(数百年先か?)天皇親政がありうるかもしれない兆候が考えられるかもしれない予感がしています。