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一時期隆盛を誇った【山科本願寺】とは20160210

一時期隆盛を誇った【山科本願寺】とは20160210


『山科本願寺』とは
現在浄土真宗山科本願寺の跡地には真宗本願寺派(西本願寺)と真宗大谷派(東本願寺)の山科別院が建っています。
山科本願寺は、本願寺第8世法主蓮如上人により建てられ、1483年に完成しました。

それに先立つこと約20年前、本願寺第8代宗主蓮如上人の時、1465(寛正6)年、京都東山・大谷本願寺(現知恩院のある場所)が比叡山の僧徒により破却され、ご開山親鸞聖人のご真影は大津・近松御坊にご避難することを余儀なくされていました。
蓮如上人64歳の時、1478年、近州・金森道西の願いにより、京都山科郷に坊舎を建てました。これが、山科本願寺のはじまりです。 
その後、1480年8月に御影堂が新築され、翌1481年6月には阿弥陀堂が完成、ここに松林山山科本願寺と号す本山本願寺が、歴史上にその姿を現したのでした。
山科本願寺は一説によれば、御影堂・阿弥陀堂を中心に43万坪ともいわれる広大な寺領を有し、その後第9代実如上人、さらに第10代証如上人と続いて諸堂宇が整備され、寺内町は足の踏み場も無く、お念仏の声絶えることも無いと言われるほどのにぎわいをみせました。

勢力が強まるにしたがって他宗派からの脅威を受けたため、周囲には堀と土塁を築いて、寺内町を形成していました。
しかし、1532年日蓮宗徒、比叡山僧徒が、六角定頼の兵とともに本願寺を襲撃、やがて御堂に火が放たれ、ついに華麗を極めた山科本願寺もことごとく灰尽に帰しています。
そのため、本願寺は蓮如上人が造営されていた大阪・石山本願寺(現在の大阪城)に移り、53年間に亘って隆盛を極めた山科本願寺は消滅しています。

その後、徳川幕府により本願寺派から大谷派(東本願寺)が新たに興されたため、2つの本願寺となり、従来の本願寺が本願寺派(西本願寺)、大谷派(東本願寺)として存在することになりました。
そのため、1732年、期を同じくしてそれぞれ山科別院を設立しています。
写真にある「本派本願寺山科別院」は本願寺派であり、「東御坊」は大谷派の山科別院として現在に至っています。

「東御坊」は大谷派の山科別院

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「本派本願寺山科別院」は本願寺派。

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蓮如上人の南殿址。

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仏光寺址の石碑が東御坊に近い所に建っていました。
この石碑は異常に大きなもので仏光寺の往時をしのぶものである。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2016-02-10 09:47 | (歴史)京都史 | Comments(2)

Commented by toshi-ohyama at 2016-03-17 08:48
本願寺の歴史を整理頂き 理解が進みました
8世蓮如時代に 浄土真宗は宗教組織としての体系を確立したようですね 43万坪と云う膨大な土地を確保するとはその財力 政治力 驚嘆するのみです

当時の山科の地は 京都と大津を分断する要衝の地とみれば良いのでしょうか ある意味 政治の世界を逃れての遁世の地ではなく 政治的な色気を感じる地と見た方が良いのではないかと考えます 機あれば再び京戻らんとの蓮如の遠謀と思うのは考えすぎでしょうか
 
Commented by mo-taku3 at 2016-03-17 12:01
応仁の乱が起こる前は本願寺派は未だ青蓮院の末寺でした。
それが応仁元年(1467年)、第13世光教の時に応仁の乱が起きます。京都の街は戦火に巻込まれ、その頃真宗で隆盛を誇っていた佛光寺も諸堂を焼失するなどかなりのダメージを受けました。
しかし、乱のさなか、1471年蓮如は布教活動を強力に進め、本願寺教団は急速に発展していってます。
1481年には、佛光寺第14世を継ぐべき経豪(後の蓮教)が本願寺の蓮如に帰依し、山科西野に再び「興正寺」として別に創建、48坊のうち42坊など有力末寺とともに本願寺に帰参してしまったといいます。
ということで元々佛光寺から帰参した者たちが山科を築いたと云っていいと思います。
それでも真宗本流の蓮如のもとに帰依したことは、それなりの魅力があったと云うことではないかと思います。