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平安京の菅原道真公の邸跡『菅大臣神社』20160319

平安京の菅原道真公の邸跡『菅大臣神社』20160319


菅大臣神社は菅原道真を祭神とする神社で、この地は菅原道真の旧邸宅跡で、道真以前から菅原家の邸宅地であったという。
道真が幼少のころ研学したところといい、それに因んで社殿を造営したのが起こりであるとされる。
ここは古くは天神御所または白梅殿とも云われたこともある。
度々兵火にかゝり、鎌倉期には南北両社に分かれ、当社を天神御所、 白梅殿社、北社を紅梅殿社と呼んでいた。
応仁の乱後1614年(慶長19年)に、 管家ゆかりの曼殊院宮良恕法親王により再興され、明治維新まで曼珠院が管轄していたが、1873年(明治6年)独立した。
この間、天明の大火、元治の兵乱で再度焼失するが、現本殿は、 明治の初めに下鴨神社の旧殿を、移築し、その後幣殿を建立して、現在に至っている。
境内には火御子社、白太夫社、老松社、福部社、春崎稲荷社、三玉稲荷社など多くの摂末社がある。


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現地の解説板によると、「現在の本殿は、 1835年(天保6年)造立の三間社流造という下鴨神社の旧殿を、
1869年 (明治2年)に移築し、その後幣殿を建立して、いわゆる八棟造)をなしている。」とのことである。

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本殿前の狛犬は珍しい。
児連れ阿形と片手玉上げ.吽形のセットのである。この型は、調べてみると出雲地方にが発祥の地らしい。
出雲地方には多く見られるそうです。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2016-03-19 14:12 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(3)

Commented by toshi-ohyama at 2016-04-12 08:34
確か境内に道真の産湯が残って居たかと記憶します
えらく狭苦しい境内だったような...
菅原家三代の居所とすると 錦天満宮とはどういう関係になるのでしょうか
此方から錦へ転居したということでしょうか
Commented by mo-taku3 at 2016-04-18 13:44

ウキペディアには、喜光寺(奈良市)の寺伝によれば、道真は現在の奈良市菅原町周辺で生まれたとされる。(この喜光寺はハスの花で有名)
ほかにも菅大臣神社(京都市下京区)説、菅原院天満宮神社(京都市上京区)説、吉祥院天満宮(京都市南区)説、菅生寺(奈良県吉野郡吉野町)、菅原天満宮(島根県松江市)説もあるため、本当のところは定かではないとされている。また、余呉湖(滋賀県長浜市)の羽衣伝説では「天女と地元の桐畑太夫の間に生まれた子が菅原道真であり、近くの菅山寺で勉学に励んだ」と伝わる。
とあります。伝説化された人なので色々な話が造られたのでしょうね。
ちょっと前に、吉祥院天満宮に行きましたが、これにまつわる史跡がありましたが、多分地理的に洛外になるのでこれはあり得ない感じがしました。

錦天満宮については、
長保5年(1003年)、菅原道真の父親である菅原是善の旧邸「菅原院」を源融の旧邸・六条河原院の跡地に移築して「歓喜寺」が創建され、その鎮守社として天満天神を祀って創建されたのに始まる。
天正15年(1587年)、豊臣秀吉の都市計画のため、寺とともに錦小路東端の現在地に移転した。その所在地名から「錦天満宮」と呼ばれるようになった。明治の神仏分離により歓喜寺は東山五条に移り、神社だけが残された。
とあります。
道真が生まれたのが845年ですから、ここは生誕とは関係なさそうです。
菅原院は烏丸丸太町を御苑沿いにすこし上がったところに「菅原院天満宮」というのがあります。そこを指すみたいです。
Commented by mo-taku3 at 2016-04-18 14:06
奈良市菅原町には「菅原神社」というのがあります。
以前ここに行ったことがありますが、ここが奈良時代のルーツのようです。
また面白いのは菅原家は出雲族のようで、野見宿禰の子孫にあたり、その後、殉死の風習に代わる埴輪の制を案出して、土師臣(はじのおみ)の姓を与えられ、土師氏の中には、姓を菅原に改めた氏があり、その菅原氏から公家の五条家が出たが、五条家は野見宿禰の子孫であることから相撲司家となった。
と云うことが分かってきました。
面白い発見でした。