「勧修寺(かじゅうじ)」(醍醐天皇開基)220160708
真言宗山階派大本山。醍醐天皇の勅願寺。
900年(昌泰3)天皇の生母藤原胤子*追善のため創建。
開基は承俊律師。1470年(文明2)兵火で焼失したが、徳川氏と皇室の援助で復興。
代々法親王が入寺、門跡寺院として格式を誇った。宸殿、書院(重文)は明正天皇の旧御殿を移築。
国宝刺繍釈迦如来説法図(奈良国立博物館蔵)は勧修寺繍帳とも呼び、当寺に伝わったもの。
庭園は、氷室(ひむろ)の池を中心とする池泉回遊式。書院前庭には水戸光圀寄進と伝える石灯籠があり、勧修寺型灯籠として知られている。
建立:900年(平安時代(昌泰3))年頃
*藤原胤子の逸話
『今昔物語』によると、藤原胤子(いんし/つぎこ、?-896)は平安時代前期の第59代・宇多天皇の女御であったという。
父は内大臣・藤原高藤、母は宇治郡司・宮道弥益(いやます)の娘・列子(れっし)。鷹狩りに出た高藤が、列子と一夜をともにして生まれたという。
857年、藤原高藤が、南山階(山科)の鷹狩の際に、栗栖野で申の刻に雷雨に見舞われ、雨宿りに偶然立ち寄った大領(たいりょう、郡司、後の四位修理大夫)・宮道弥益の屋敷で、一夜を過ごすことになった。
高藤は、酒肴を運んできた弥益の美しい娘・列子(たまこ)に惹かれ深い契りを結ぶ。この時、高藤は15-16歳、列子は13-14歳であったという。
高藤は、形見の太刀だけを残して屋敷を去る。
この時を境に、父・良門に狩を禁じられた高藤は、父没後(6年後)に弥益の屋敷を再訪すると、列子の傍らに幼い娘がいた。これは一夜の契りで生まれた高藤の子・胤子だった。
列子は、高藤との再会を待ちわびていたがこれを契機に母子は京都に招かれ、高藤とともに暮らすことになった。
胤子は、後に第59代・宇多天皇の女御となり、醍醐天皇を産む。
以後、高藤も、宮道家も昇進し栄えたという。
列子は、たまこ とも呼ばれ、 「玉の輿に乗る」 という言葉の語源になったともいわれている。
この項 <完>
by mo-taku3 | 2016-07-08 15:55 | (仏閣)京都のお寺 | Comments(2)
観光寺院には向かぬようですが 一度観てみたくなりました
このお寺に入る前の長い白壁の土塀が大寺院の面影を持っています。期待が膨らみますがなんというか今一つ迫力に欠けるような気がします。
それでも受付の方(中年の方)の優しそうな(実際感じがよかった)説明に気分よく回ってきました。
もっといいパンフレットを拵えて夜間もやるようにするともっといいのかもしれませんね。