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歴史に翻弄された「方広寺」の鐘楼と大仏殿跡20160824

歴史に翻弄された「方広寺」の鐘楼と大仏殿跡20160824


この近辺で皆さんがご存じな建物は京都国立博物館だと思いますが、その北隣に豊国神社があります。
更にその北隣に方広寺があります。
実はこの辺りは全て方広寺の寺域であったことはご存じだろうか。
隣りの豊国神社は明治になってから建てられたもので、方広寺の大仏殿は豊国神社の後ろ(東側)の跡地として発掘されています。
方広寺は、豊臣秀吉が建立し、現在、伝教大師作・豊太閤護持を祀る大黒尊天があります。
はっきりとした記録はありませんが、天正14年(1586)に秀吉が奈良・東大寺にならって大仏を建立を決め、文禄4年(1595)に大仏殿が完成していたようです。
高さは約19m位あったという木製大仏で、秀吉時代の大仏殿の規模は何度か建て替えられましたのではっきりしていません。
慶長元年(1596)の伏見大地震のため大仏が倒壊した際、秀吉は 「うぬは、京の町を守るを忘れ、まっ先に倒れるとは、慌て者めが!」 といって弓矢を放ったという有名な逸話があります。

慶長9年頃、放火により炎上したあと、豊臣秀頼が再興しています。
2000年に遺構の状態を確認するため、部分的な発掘調査が実施されました。
その結果、大仏殿の正確な位置が判明し、その規模も南北約90m東西約55m、大仏の全高18mという東大寺大仏殿をもしのぐ壮大さであったことが改めて確認されています。
残念なことに寛政10年(1798)に落雷による火災で大仏もろとも焼失してしまいました。
また、天保年間に寄進された旧大仏木造半身像も昭和48年、火災によって焼失。
『大仏殿跡緑地公園』としてその名を残しています。
いまは大仏殿と大仏の一部であると考えられる遺物が保存されているだけです。

さて、「国家安康・君臣豊楽」 の文字のある歴史的大事件「大阪の陣」のきっかけとされた有名な「梵鐘」は鐘楼ともに健在です。近寄るとやはり大きな鐘です。
この梵鐘は昭和43年に重要文化財に指定されました。
今でもは梵鐘本体の上部に白く囲まれた部分の文字が今も読みとることができます。

方広寺に行かれる時は大仏殿跡地もちょっと覗いてみてください。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2016-08-26 15:58 | 歴史散歩 | Comments(2)

Commented by toshi-ohyama at 2016-09-16 08:07
方広寺周辺で見落としてはいけないのが 耳塚でしょう
諸説ありますがいずれにしても朝鮮側にとっては悍ましいものと映ることと思います 朝鮮通信使が大仏殿前で歓迎式典を催され 雨森芳洲 新井白石が耳塚の周囲を竹垣で囲って通信使の眼に触れぬように配慮した話を重く受け止めています
国家安康 君臣豊楽の碑文は豊臣家への調略ととしては 余りに巧妙で金地院崇伝らの策謀に家康の天下取りへの執着の強さを想います 
Commented by mo-taku3 at 2016-09-16 17:32
家康が耳塚を残したのは、方広寺の鐘とあわせて嫌みたっぷりですね。
耳塚の写真は何度か写しましたが、載せたことはありません。説明板を読むと耳だけではなく鼻もと書いてありました。
武家社会に反感を持っている明治維新の公家たちも豊国神社は建ててもお寺の方広寺はちゃんとしなかったんですね。
今はさびれて鐘楼だけが目立ちます。