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西国札所【満願霊場】「谷汲山華厳寺」20170603

西国札所【満願霊場】「谷汲山華厳寺」20170603



谷汲山華厳寺(たにぐみさんけごんじ)、このお寺を訪れるのは2回目となります。

この華厳寺は日本最古の観音霊場「西国三十三所観音霊場」の第三十三番札所で結願・満願のお寺として知られ、春にはには紅葉の名所として賑わいをみせています。

今回は2回目の巡礼ですが、前回は昭和56年(1981年)から4年かけて周り1984年の満願時行っております。

全く記憶を呼び戻すものはなく、今回しっかり記憶に刻んできました。

華厳寺は永禄3年(1560年)成立の『谷汲山根元由来記』によると、

「華厳寺は延暦17年(798年)、会津黒河郷の豪族大口大領なる人物によって創建されたという。

大口大領は都の仏師に依頼して自らの信仰する十一面観音の像を造立した。

彼は観音像とともに会津に帰ろうとしていたが、途中、美濃国の赤坂(現・岐阜県大垣市)で観音像が動かなくなってしまったという。

赤坂の北五里の山中に観音所縁の霊地があるというお告げを受け、大口大領は同地に草庵を建立し、延暦末年に、当地で修行していた僧・豊然上人(ぶねんしょうにん)の協力を得て華厳寺を建立した。」

とあります。

西国三十三ヶ所霊場の満願所と定めたのは、中興者と言われる花山法皇ですが、徒歩で巡幸し、禅衣、杖、及び三首の御詠歌を奉納したと伝えられています。

また鎌倉時代には後白河法皇が花山法皇の跡を慕って巡幸したといわれています。

また、ここの山号と寺号は醍醐天皇が下賜したものです。

延暦20年(801年)、桓武天皇の勅願寺となり、天慶7年(944年)には朱雀天皇が鎮護国家の道場として当寺を勅願所に定め、一万五千石を与えています。

以上ですが、上記内容に異説もあります。また開山後3年で勅願所になることも何らかの朝廷とのつながりが感じられます。

さて参籠は、総門をくぐると、左右にソメイヨシノの桜並木、土産物店、飲食店、旅館などの立ち並ぶ非常に長い参道が続き、距離にして約1km、徒歩10分ほどで仁王門に達する。

仁王門から本堂まではゆるやかな登りの石畳の参道となり、右手には放生池、地蔵堂、茶所、一乗院、十王堂、羅漢堂、英霊堂、三十三所観音堂、左手には法輪院、明王院、一切経堂、観音勢至像、本坊などがあり、本坊の一画には大師堂、内仏客殿、庫裏が建ちいかにも古刹という感じで迫る。

参道突き当りの石段を上ると本堂があり、その右手に鐘楼堂があります。

そこからさらに左手に進むと阿弥陀堂、笈摺堂、子安堂があり、お遍路さんが満願で奉納した、白衣・金剛杖・菅笠などが沢山置かれていました。

更にその奥に行くと、石段を上った先に満願堂が建っています。

全体として、歴史を感じる素晴らしい古刹でした。

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この項 <完>





by mo-taku3 | 2017-08-07 10:13 | (巡礼)西国三十三ヵ所 | Comments(2)

Commented by toshi at 2017-09-04 08:40 x
満願霊場に相応しい立派なお寺ですね
花山上皇は 実際に三十三か所巡礼されたとすると中々の健脚ですね
吉野に何度も足を運ばれたのは 白河院? 後白河院?
何れにせよ 孝明天皇は岩清水行幸まで御所を出たことがなかったと云われるほど江戸末期には引き籠り状態となっています 何処で変わってしまったのか 途中に出てくる四天王像が 往時の色を再現していて素晴らしいです 白衣 金剛杖 菅笠は 満願時に奉納するものなのですか?
Commented by mo-taku3 at 2017-10-01 09:03
私はここは2度目ですが、ずいぶんきれいになっていました。
白河院と後白河院の間には、堀河・鳥羽・崇徳・近衛と4代入りますがこの頃は朝廷(公家)と平氏(武家)とのせめぎあいの時期だったと思います。
白河法皇は絶大な権力を保持していましたが、鳥羽院の時代頃にはかなり平氏の力が強くなり、平氏の財力に頼っていた感があります。
白河法皇だと思いますが、吉野というより熊野詣が盛んになってきたように思います。
平安時代には、「宇多法皇に始まる歴代法皇・上皇・女院の熊野御幸は百余度に及び」とありますし、平重盛は熊野詣の警備の途中に落馬し、それが原因で死んだと言われています。すべてが怨霊払いだったように思います。