三井寺(園城寺;大津市)の伽藍20180503
三井寺の創建には、古代史最大の内乱「壬申の乱」が深く関わっています。667年、近江大津に遷都した中大兄皇子(天智天皇)の後継争いのため、弟の大海人皇子と、息子の大友皇子が皇位を争う壬申の乱が勃発し、大海人皇子(天武天皇)が勝利しました。
大友皇子の子・大友与多王は、父の菩提を弔うため、天智天皇が所有していた念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺院の建立を発願し、686年、天武天皇に許可され「園城寺」という寺号を与えらました。
なお、三井寺という名称は、境内に湧いている井戸の水を天智・天武・持統の三帝が産湯に使ったという言い伝えから「御井(みい)の寺」と呼ばれ、それに由来しているようです。
貞観元年(859年)、三井寺初代長吏に就任し、その後の三井寺の発展の基礎を築いたのが、智証大師円珍である。(母は弘法大師空海の妹(もしくは姪)にあたるという。)
三井寺は顕教・密教・修験道の兼学道場として発展し、比叡山延暦寺と肩を並べるほどの大寺院となっていきます。
円珍の没後、比叡山内では激しい対立が起こり、武力衝突まで起こるようになり、その結果、円珍の一派は比叡山を下りて三井寺を拠点とし、以降、比叡山を「山門」、三井寺を「寺門」と呼ぶようになります。
この対立は中世末期まで続き、三井寺は比叡山修徒によって50回以上も焼き討ちにあっているそうです。また三井寺側も兵力を蓄えてこれに対抗し、両派ともに、歴史上でも重要な場面で登場するまでの兵力となっていきました。
この項 <完>
by mo-taku3 | 2018-05-03 12:13 | (仏閣)関西のお寺 | Comments(2)
三井寺は 三井グループの寺かと思ったこともありましたが 天智 天武 持統の三天皇の産湯とのこと そうなると天智の子である 元明 弘文(大友皇子)は この地で産湯を使っていないのか なんて考えたりします
大津京にある弘文天皇陵は明治期に設定されたようですから 大友皇子は歴史から消されていて当然とも思えますが 元明は早世した文武の代役(繋ぎ)で天皇としての存在意義は認められないのか... この時期の皇室の歴史は実に複雑です 天武は持統を始め4人の天智の娘を妃に迎えています
天武をひも解くことがカギなんでしょうね。そろそろ究明に動き出したと思います。
※やっと仕事から全く解放されましたので今まで溜まっていた のを動きに繋げられればいいなぁ~と思ってます。