高台寺・ねねの道・三面大黒天20180619

高台寺・ねねの道・三面大黒天20180619



なんでもそうだが、ちょっと見ぬ間にとか未だ同じか、ということがあると思う。
ねねの道を歩くとお店や建物が見る間に変わっていくことで気になるのは、歴史的建造物と思っているものがイメージが変わるくらい変化していることがある。
又最近増えてきているのは外国人向けの看板が多くなっていることである。これは観光都市京都ということでいいことだと思うがもう少し美観を考えてほしい気がしている。
外国人旅行者と言えば、マナーの悪い方がかなり多かったが、ここ一年位は急速に改善されてきているように思えるのはうれしいことである。

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この項 <完>






by mo-taku3 | 2018-06-19 17:06 | (歴史)京都史 | Comments(2)

Commented by toshi-ohyama at 2018-06-30 06:36
西行終焉の地は 此方でしたか 富岡鉄斎が修復勧請に手を貸しているというのも素晴らしいことです
うろ覚えですが 西行終焉の地は京都ではなかったように記憶していました 「諸説あり」ですかね
Commented by mo-taku3 at 2018-06-30 10:44
資料によると、
「西行は大阪河内の山里にある、役(えんの)行者が開き、行基や空海も修行した弘川寺の裏山に庵を結び、ここが終焉の地となった。
西行は亡くなる十数年前に、遺言のような次の歌を詠んでいた。
『願はくは花のもとにて春死なむ その如月(きさらぎ)の望月の頃』※如月の望月=2月15日。釈迦の命日。
(願わくば2月15日ごろ、満開の桜の下で春逝きたい)
西行が来世へ旅立ったのは2月16日。釈迦の後ろを一日遅れてついて行った。
他界から540年後の江戸中期(1732年)、西行を深く慕い弘川寺に移り住んだ広島の歌僧・似雲法師が、西行の墳墓を発見した。以降、似雲法師は西行が愛した桜の木を、墓を囲むように千本も植えて、心からの弔いとした。墳墓上の老いた山桜を始め、今では1500本の桜が墓を抱く山を覆っている。」
とありました。
これが信憑性がありそうです。
京都は富岡鉄斎が絡んでいましたか…。