上御霊神社(京都)20190824
御霊信仰は9世紀前半から民衆の間で広まり、863年(貞観5年)には公式の御霊会で祭られるようになった。
桓武天皇の時代、各地で疫病が流行した。これは御霊の祟りであるとして、貞観5年(863)5月20日、平安京の神泉苑で御霊会が催された。この時に慰霊された御霊は崇道天皇・伊予親王・藤原夫人・観察使(藤原仲成)・橘逸勢・文屋宮田麿らであった。
この御霊会が上御霊神社および下御霊神社の創祀であるとしている。
現在の下御霊神社を下出雲寺御霊堂、上御霊神社は上出雲寺御霊堂と称し、ここにあった出雲寺の御霊堂だったようで、出雲族も怨霊だったような感じを受ける。その結果か、朝廷の篤い崇敬を受け、至徳元年には正一位の神階を授けられたという。
また、室町時代の文正2年(1467)1月18日、失脚した管領の畠山政長と畠山義就との私闘が当社境内の森で行われた(御霊合戦)。この戦いは応仁の乱の前哨戦となり、応仁の乱発祥の地とされる所以である。
なお、延喜式神明帳に記載される出雲井於神社(式内大社)や出雲高野神社(式内小社)を当社に比定する説もあるが、継続性は不詳であり、神社側の由諸ではこれらの式内社について言及していない。しかし、比定は無いにしても、関係性は十分考えられるように思う。この項 <完>
by mo-taku3 | 2019-08-24 10:32 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)
ただ、出雲族は(私の考えですが)北から来たのではなく大和の地から北に追われていった考えがあるように思います。