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京都大徳寺の紹介20190822

京都大徳寺の紹介20190822



大徳寺は京都北大路通沿いの大宮通西にある臨済宗大徳寺派の大本山で勅使門、山門、仏殿、法堂がほぼ一直線に並び、更に奥には方丈および玄関(国宝)唐門(国宝)*があり、これら中心伽藍の他20以上の塔頭寺院が並んでいる。

大徳寺の開祖である禅僧・宗峰妙超は正和4年(1315年)ないしは元応元年(1319年)に、洛北紫野の地に小堂を建立した。これが大徳寺の起源という。

建武の新政では京都五山の上位になったが、後醍醐天皇と関係の深かった大徳寺は足利将軍家から疎んじられ、十刹の第9位まで落とされている。

足利政権の庇護と統制下にあって世俗化しつつあった五山十刹から離脱し、座禅修行に専心するという独自の道をとった。(五山十刹の寺院を「叢林」(そうりん)と称するのに対し、同じ臨済宗寺院でも、大徳寺や妙心寺のような在野的立場にある寺院を「林下」(りんか)という。)

その後の大徳寺は、貴族・大名・商人・文化人など幅広い層の保護や支持を受けて栄え、室町時代以降は一休宗純をはじめとする名僧を輩出した。

更に有名にしたのは、豊臣秀吉が織田信長の葬儀を営み、菩提を弔うために総見院を建立、併せて寺領を寄進、それを契機に戦国武将の塔頭建立が相次ぎ隆盛を極めたという。その後徳川幕府により、大名の京都にある臨済宗の禅寺はこの大徳寺と妙心寺に寄せられたようである。

明治に入って「上知令」によって困窮し、堂宇を維持するため明治11年(1878)、塔頭13寺を合併、4寺を縮小、20寺を永続塔頭とする縮小を行ったが、その後寺運は栄え今日に至っている。

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*唐門(国宝)西本願寺と京都豊国神社の唐門とともに「桃山の三唐門」と呼ばれている。仏殿などの中心伽藍の北東に位置し、方丈南の土塀に接続する。かつてこの位置には明智門と呼ばれる本能寺の変直後に明智光秀が寄進した銀を元手に建築された門があったようだが?明治19年(1886年)に明智門を南禅寺金地院に売却し聚楽第の唐門を移築したと伝わる。

現在この唐門を含め大徳寺伽藍は敷地内に入れず、写真は敷地の外から写している。年に一度特別公開があるようだ。

この唐門は京都府教育委員会により解体修理が行われその際、飾り金物から「天正」の刻銘が発見されたことから、伝承通り聚楽第の遺構であることがほぼ確定している。











この項 <完>





by mo-taku3 | 2019-08-22 14:36 | (仏閣)京都のお寺 | Comments(2)

Commented by toshi-ohyama at 2019-08-24 07:09
江戸時代までの隆盛は 貴族武家からの寄進によるものでしょうね
末寺が減少し 急速に財政状況は悪化しているのではないでしょうか 拝観料と御朱印だけでは維持不可能なのではと思ったりします
修行を続けているのは お寺の息子たちだけなのでは?と考えるのは 余りに俗的でしょうか
Commented by mo-taku3 at 2019-08-24 20:45
現在のことだけを言えば、広い駐車場を持ち観光客もバスで難題も来ています。境内はきれいに整備されていますが、仏殿の龍図を見るとやはり!という風にも感じます。ただ塔頭はそれなりに有力檀家が居るので大徳寺は塔頭からの収入で成り立って異様な気がします。