興福寺「中金堂完成」20200112
興福寺には西国札所として「南円堂」がある。西国は3度回っているので何度かここに足を運んでいます。今回は中金堂の落成があったので出かけてみました。
興福寺としては、和銅3年(710)藤原不比等が飛鳥から平城京へ前身の厩坂寺を移転したもので、「興福寺」として名付け、藤原氏の氏寺として藤原一門の隆盛とともに寺勢を拡大しました。また、神仏習合の影響をうけ、春日社と一体化し、僧兵をしたがえて朝廷へ強訴に及ぶまでになっていました。しかし、治承4年(1180)平家に焼き打ちされ、ほとんどの堂宇が焼失しますが、ただちに再建されています。
鎌倉時代には大和守護職の実権を握り、実質的に大和国一帯を支配していたようです。現在の堂宇は、鎌倉以降の建物を一部残し、広い境内に東金堂・中金堂・北円堂・南円堂・五重塔・三重塔・大湯屋・大御堂・国宝館などが建並び、仏教彫刻類は天平時代や鎌倉時代の名品を数多く保存しています。
(中金堂は平成30年(2018)に落慶しました。)
足利義昭はここの高僧までになりましたが、将軍の魅力に取りつかれて最終的には寂しい人生だったようです。この項 <完>
by mo-taku3 | 2020-01-12 16:20 | (仏閣)関西のお寺 | Comments(3)
平城京の再建は殆どが鉄骨・鉄筋で造っています。ビル建築と同じような造りですので、あまり檜などの良材は使っていないのではないかと思います。