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2012年 01月 20日 ( 1 )

豊臣秀長の大和郡山城を散策(2010・01・29)

豊臣秀長の大和郡山城を散策


陽もポカポカしてきたので、奈良方面の散策に出かけてみた。
一度行ってみたいと思っていた、大和郡山に下りることにした。

近鉄急行で橿原神宮行きに乗り、郡山で下車。
駅前から、ルート地図を見て進むうち、箱本館「紺屋」というのに出会った。
看板には、「箱本とは、郡山町内にあった自治組織で、江戸時代には13町がこれに加盟しており、これらの町が交代で治安維持や消火活動に当たる住民自治の先駆けとなる制度」と説明されていた。
「紺屋」とは、豊臣秀長時代に成立した、藍染めの職人町だったようだ。
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ここからまたしばらく歩くと、池が点在しているのが見えてきた。
これは、郡山は金魚の産地ということだった。しかしこの時期、池には金魚はいなく、又出直すことにして、

次の郡山八幡宮に出会った。
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次に進むと、古墳があった(新木山古墳)。奈良は古墳が多く殆どどこでも見ることができる。
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この古墳の周りには幾つかの古墳が点在していた。

またまた、しばらく歩いていくと、お寺があった。
このお寺は柳沢家(吉保の次の代に甲府から移封されて明治まで続いた)の菩提寺ということで立派なお寺であった。
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ここを離れて、いよいよお城に向かうことにした。
目的地、大和郡山城は筒井順慶から何人かの武将を経て、豊臣秀長が100万石大名として入部した。
その後、増田長盛、水野勝成、松平、本多などの後、柳沢家の居城となった。
まず、かなり深いお堀があり、
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お城に入ると、まず目についたのは、柳沢神社であった。
多分、柳沢氏の治世が長いことと、文武両道を推奨していたのではないかと思うふしがある。
この城内には、郡山高校があり、武道が盛んなところでもあった。
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更に奥に進むと天守閣らしきものがあった。そばに行くと、「さかさ地蔵」の説明があった。
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豊臣秀長に関する本を読むと、賢人で慈悲深いような内容が多くみられるが、この城の築城時の石集めを見た限り、そうとも言えないのではないかと思えてきた。
それはさておき、天守跡に登って見た風景は、大和郡山の町が見える、なかなかな眺望だった。
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きっと当時の天守閣からの眺望は見事だったのではないか。

お城は取りあえず出て、郡山高校の前を通り、お堀沿いにしばらく行くと、大きな門に出会った。説明によると、
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とあった。
この城門は【追手門(梅林門)】とある。(どうゆう訳か、この城門の写真を撮り忘れている)

ここまでの道のりは既に7・8kmほどではないか。もっとかもしれない。どこかで休む必要がある。
しばらく休憩して、再び歩き始め、

秀長のお墓があり、菩提寺でもある春岳院に行きついた。
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残念ながら、中に入ることはできなかった。

最後の見学が終わり、ところどころ古い街並みをみながら、駅に向かい帰途に就いた。

郡山にはまだまだ見たいところがあった。
ただ記憶に残ったのは、小さな神社のお婆ちゃんにつかまり、神社の自慢とともに、維持が大変だということと、奈良県は京都と違って、文化財は多い割に国宝・重要文化財の指定が少なく補助が足りないと嘆いていたことだった。
確かに、この神社の建物も小さい割には立派だった。歴史もあり古い造りでもあった。
是非、国も県も市も補助してあげたらと思う私だった。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-01-20 23:18 | (歴史)関西史 | Comments(2)