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2012年 01月 27日 ( 1 )

京都神泉苑と節分の恵方社

京都神泉苑と節分の恵方社


今日は1月27日。もう直ぐ2月3日の節分になります。
ここでは、神泉苑と、日本で唯一の“恵方社”の面白さを紹介したいと思います。

神泉苑(しんせんえん)は、京都市中京区にある東寺真言宗の寺院で、二条城の南に位置し、元は平安京大内裏に接して造営された禁苑(天皇のための庭園)でした。
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説明板には
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このように書かれています。

境内に「大歳神:歳徳神(さいとくじん)」を祀る恵方社あり、毎年大晦日の晩に恵方に社の向きを変える点が他の神社仏閣と異なり、日本国内で毎年向きを変える「大歳神」は唯一ここだけに見られる祀り方であると伝えられています。
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平安京造成時には平安京の大内裏の南西に当り、低地となるところで、気功的に言うと「水の取り入れ口となり、羅城門での吐き出し口になる」と言われてきています。
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現在の神泉苑を見ると、規模が小さくパッと見、余り重要な重きのある社寺には見えませんが、歴史的に見れば、例えば、「八坂神社の祇園祭の始まりは、疫病を沈めるため八坂神社から神輿が神泉苑に行き、祈願した」とあるように、今でもこの行事は行われているようで、重要な地位を占めていたのは確かなようです。
もう少し講釈を加えると、
延暦13年(794年)の平安京遷都とほぼ同時期に造営された禁苑で、当初の敷地は二条通りから三条通りまで、南北約500メートル、東西約240メートルに及び、池を中心とした大庭園であったようです。
「日本紀略」によると、延暦19年(800年)7月19日(旧暦)、桓武天皇が行幸したという内容がかかれており、また、延暦21年(802年)には雅宴が催されたとあり、この頃から神泉苑は天皇や廷臣の宴遊の場となったようです。
神泉苑には竜神(善女竜王)が住むといわれ、天長元年(824年)に西寺の僧と、当時、東寺の僧だった空海が祈雨の法を競いあい、空海が勝ったことから以後東寺の支配下に入るようになったとい言われています。
貞観5年(863年)に都に疫病が流行った際、神泉苑で御霊会が行われました。貞観11年(869)には神泉苑の南端(現在の八坂神社三条御供社(現在三条商店街に面して現存))において、全国の国の数と同じ66本の鉾を、神泉苑の池にくりこみ、厄払いをした。
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後世には、これが町衆の祭典として、鉾に車を付け、飾りを施して京の都を練り歩く、祇園祭へとなる。(また、異説によると、祇園社から神輿を出し、現在の祇園祭の元になった)と言われています。
中世以降は2度の大火に見舞われ、平安京自体が全く造営された時点の様相も一変し、すっかり荒廃して勝手に家が建てられていったといわれてます。
徳川家康が二条城を造営した際(慶長8年(1603年))には神泉苑の敷地の大部分が城内にかかり、規模を縮小したとされていますが、その時はもとあった地域が既に見る影も無かったのではないかと思います。
さらに、1783年(天明8年)の天明の大火で、堂塔社殿を焼失した。
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伝承では源義経と静御前が出会った場と言われており、京都市の東西に伸びる通りの一つ「御池通」の名前の由来であるとの説もあります。
二条城の南(押小路堀川東入ル)には昔の神泉苑の東端を示す石碑が、京都市営地下鉄東西線工事の際に発見されたものです。

平安京(大内裏)の南東隣りに位置したこの神泉苑には、大池、泉、小川、小山、森林などの自然を取り込んだ大規模な庭園が造られており、敷地の北部には乾臨閣を主殿とし、右閣、左閣、西釣台、東釣台、滝殿、後殿などを伴う宏壮な宮殿が営まれていました。
地下鉄東西線建設に伴う発掘調査によって、大池の北岸、泉から池に流れ込む小川(遣水)など庭園の北部を検出しています。
小川河口のすぐ西側の池の北岸には、長さ約4mを測る厚い板材が設置されており、船着き場の足場板と見られます。ここでは、船着き場の足場板を検出状況に即して復元展示しています。
平安時代初頭頃には、苑池での管弦の宴などに用いられた竜頭鷁首の舟などが着き、貴族たちが南庭へと下り立ったものと想像されます。
また繰り返すが、「祈雨」については、天長2年(824)淳和天皇の勅命により弘法大師空海は神泉苑の池畔にて祈られ北印度の無熱池の善女龍王を勧請(呼び寄せられ)された。日本国中、雨が降り、人民が大いに喜んだとあり、これ以降神泉苑の池には善女龍王がお住みになるといわれている。
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五位鷺(ごいさぎ)の謂れについては、醍醐天皇が神泉苑に行幸になったときに鷺が羽を休めていた。
帝は召使いにあれを捕らえて参れと仰せられた。召使いが近づくと鷺は飛び立とうとした。
召使いが「帝の御意なるぞ」と呼びかけると鷺は地にひれ伏した。帝は大いに喜ばれ、鷺に「五位」の位を賜った。以降、鷺は「五位鷺」と呼ばれ、謡曲にも謡われるようになる。
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不思議なことに、この池に飼っているわけではないが、「こさぎ」をこの池でかなりの頻度で見ることができる。

このように恵方社の紹介が神泉苑の紹介になってしまいました。


この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-01-27 15:19 | (歴史)京都史 | Comments(6)