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大原三千院の新緑

大原三千院の新緑



三千院は天台三門跡の中でも最も歴史が古く、最澄が延暦7年(788年)、比叡山延暦寺を開いた時に、東塔南谷(比叡山内の地区名)に自刻の薬師如来像を本尊とする「円融房」を開創したのがその起源という。
円融房のそばに大きな梨の木があったため、後に「梨本門跡」の別称が生まれた。
というような歴史があるなか、もう何度目の訪問になるだろう。とにかく何度も来ている感がある。

ここ三千院の入館料は 700円であるが、入ってみれば納得のいく料金といえよう。
今は、新緑の季節で、庭の緑がまぶしいほどだ。
しばし、ゆっくり眺めてみる。
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このように、庭は非常に整備された状態である。
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阿弥陀三尊坐像 - 往生極楽院の本尊。脇侍の勢至菩薩像像内の銘文から平安時代末期の1148年(久安4年)の作とわかる。
阿弥陀如来、観音菩薩(聖観音)、勢至菩薩の三尊が西方極楽浄土から亡者を迎えに来る(来迎)形式の像で、両脇侍が日本式の正座をしている点(大和座り)が大きな特色である。
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ここまで持ってきた靴を履いて、一面苔が芝生となっている庭に出る。
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しばらく進むと、苔むした中に鎮座する子像の石像が見えてくる。
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石像自身も苔むした状態でいるが、表情が何とも愛くるしい。
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更に奥に進むと季節によって色々な花が咲く庭園にでる。
もうすぐアジサイの咲く時期となるが、一足早くカエルが先に顔を出していた。
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牡丹は既に終わりかけていたが、大原は京都市街地よりも数度寒いと云われるように、数株の牡丹が咲いていた。
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以前は気が付かなかったが、「越中おわら櫻」がもう散ってはいたが存在していた。どうゆう経緯なの分からないが結構大きな木になっていた。
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三千院は水が豊富な所であり、小さな水路があちこちにあった。
そこに小さなアヤメ科の花がさいていた。
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一回りして帰る途中に、多分地中から掘り出されたであろう大きな石仏を見ることができた。
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出口の少し手前の塀から、大原の里を眺めると、新緑の世界が広がっていた。
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(付説)坂本の円融房には加持(かじ、密教の修法)に用いる井戸(加持井)があったことから、寺を「梶井宮」と称するようになったという。最雲法親王は1156年(保元元年)、天台座主(てんだいざす、天台宗の最高の地位)に任命された。
同じ年、比叡山の北方の大原(現在の京都市左京区大原)に梶井門跡の政所(まんどころ)が設置された。これは、大原に住みついた念仏行者を取り締まり、大原にそれ以前からあった来迎院、勝林院などの寺院を管理するために設置されたものである。





この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-05-23 21:37 | Comments(4)

宇治平等院鳳凰堂(阿弥陀堂)

宇治平等院鳳凰堂(阿弥陀堂)



京都市の南に位置する宇治は、『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台であり、平安時代初期から貴族の別荘があった。その代表的なのが平等院である。
その平等院を語る前に、この橋のふもとには源氏物語の「夢の浮舟;最終話」についての逸話が載っていた。
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源氏物語には意に反した男性と関係を持った女性は複数登場する。その結果それぞれが、男から逃れるために出家を余儀なくされている。浮舟も投身自殺が未遂に終わって横川の僧都に助けられ、山里で静かに暮らしていたが、また言い寄る男が出てきてついに出家する。薫が彼女の弟に文を持たせてくるが、手紙を受け取らず、使いの弟にも会わない。やっと浮舟は自分で自分の態度を決めることができた。
 
もう少し、詳しく状況をみると次のような内容である。
「薫は比叡山の奥・横川(よかわ)を訪ね、小野で出家した女について僧都に詳しく尋ねた。「その女は浮舟に違いない」と確信した薫は夢のような気がして涙を落とした。その様子を見て、僧都は浮舟を出家させたことを後悔した。薫は僧都に浮舟のいる小野への案内を頼むが僧都は「今は難しいが来月なら御案内しましょう」と述べる。薫は浮舟への口添え文を僧都に懇願して書いてもらう。
その夜、横川から下山する薫一行の松明の火が、浮舟がいる小野の庵からも見えた。 妹尼たちが薫の噂をする中、浮舟は薫との思い出を払うように念仏を唱える。
翌日、薫の使者として 浮舟の異父弟・小君が小野を訪れた。朝早くに僧都から前日の事情を知らせる文が届いており、妹尼たちが浮舟の素性に驚いていたところだった。小君が持参した僧都の文には、薫との復縁と還俗の勧めをほのめかしてあった。簾越しに異父弟の姿を見た浮舟は動揺するが、結局は心を崩さず、妹尼のとりなしにも応ぜず、小君との対面も拒み、薫の文にも「(宛先が)人違いだったらいけない」と言って受け取ろうとしなかった。むなしく帰京した小君から「対面できず、お返事も頂けなかった」と聞いた薫は(自分が浮舟を宇治に隠していたように)「他の誰かが浮舟を小野に隠しているのではないか」と思うのだった。」
となる。
源氏物語は女性たちのさまざまな哀しみを語っている。
物語の美しさはその「あわれ」から生まれている。
それがこの最終章の史跡である。
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宇治橋の横には、紫式部像の他このような「夢の浮橋」の古蹟が置かれている。
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どうゆう訳か、季節外れのシャクナゲが一輪の花を添えていた。
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さて、話を平等院に戻そう。
9世紀末頃、光源氏のモデルとも言われている左大臣、源融(嵯峨源氏)の別荘だったものが、宇多天皇に渡り、摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となったものである。
道長の子の関白藤原頼通は、永承7年(1052年)、宇治殿を寺院に改め、これが平等院の始まりである。
創建時の本堂は、阿弥陀堂(鳳凰堂)の北方、宇治川の岸辺近くにあり、大日如来を本尊としていたが、翌天喜元年(1053年)に阿弥陀堂(現・鳳凰堂)が建立された。
本尊阿弥陀如来像を安置する中堂(ちゅうどう)、左右の翼廊、中堂背後の尾廊の計4棟が「平等院鳳凰堂」として国宝に指定されている。中堂は入母屋造、裳階(もこし)付き。東側正面中央の扉を開放すると、柱間の格子は本尊の頭部の高さに円窓が開けられており、建物外からも本尊阿弥陀如来の面相が拝せるようになっている。
阿弥陀如来の住する極楽浄土は西方にあると信じられており、池の東岸(あるいは寺の前を流れる宇治川の東岸)から、向かい岸(彼岸)の阿弥陀像を拝するように意図されたものである。
中堂の屋根上には1対の鳳凰(想像上の鳥)像が据えられているが、現在屋根上にあるのは複製で、実物(国宝)は取り外して別途保管されている。
本尊阿弥陀如来像(国宝)は仏師定朝の確証ある唯一の遺作。本尊を安置する須弥壇は螺鈿(らでん)や飾金具で装飾され、周囲の扉や壁は極彩色の絵画で飾られ、天井や柱にも彩色文様が施されていた。
長押(なげし)上の壁には楽器を奏で、舞いを舞う姿の供養菩薩像の浮き彫り(現存52体)があり、本尊の頭上には精巧な透かし彫りの天蓋(てんがい)を吊る。
現在、壁画は剥落が激しく、柱や天井の装飾は色あせ、須弥壇の螺鈿は脱落しているが、創建当時の堂内は、当時の貴族が思い描いた極楽のイメージを再現した、華麗なものであったと思われる。
なお、「鳳凰堂」の呼称は、当初は「阿弥陀堂」あるいは単に「御堂」と呼ばれていた。日本の10円硬貨には平等院鳳凰堂が、一万円紙幣には鳳凰堂の屋根上に飾られている鳳凰がデザインされている。
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本尊の頭部の高さに円窓が開けられており、建物外からも本尊阿弥陀如来の面相が拝せるようになっている。この面相が拝せるようになっている造りは、藤原時代の特徴でもある。
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天気がよく、池の水面にも鳳凰堂が浮かび上がるとともに、今日は空が透き通る青さだった。
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近年史跡の維持管理の一環で補修・整備が行われ、全体的にきれいになっていた。
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丁度池のハスの花がきれいに咲いていた。
全てに、満足できる内容であった。
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さてここで、源頼政について一席講釈を述べさせていただきたい。
以仁王(もちひとおう)をご存じだろうか。
以仁王は、諸国の源氏武士や大寺院に宛てて令旨(りょうじ;皇太子・三后(太皇太后・皇太后・皇后) の命令を伝えるために出した文書をいう) を発し、清盛の追討を呼びかけた。
以仁王の動きを知った清盛は、身柄の確保をはかったが、王はからくもこれを逃れ、 園城寺(おんじょうじ;三井寺) に逃れる。
園城寺を出て南都の興福寺 に向かった以仁王は、五月二十六日に南山城(みなみやましろ) で討たれ、また、王に味方して反平氏に最初の挙兵をした、源頼政も宇治川の戦いで敗れ、宇治平等院で自害した。
このように以仁王の反乱そのものはあっけなく終わりを告げたが、王の発した令旨は、清盛たち平氏に反感を持つすべての勢力に戦いの大義(たいぎ) 名分(めいぶん) を与えるものとして、きわめて大きな力を発揮した。
以仁王の挙兵に続いて、木曽義仲、源頼朝と続々と挙兵していくことになる。
その平氏打倒の先鞭をつけた、源三位頼政が自刃した史跡がこの“扇の芝”で、扇形の芝生が今もきれいに整備されている。
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扇形に囲いができており、頼政はその中で自刃し石碑が建てられている。
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また、鳳凰堂の背後にある景勝院に、頼政のお墓が建てられている。
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(付説)現在の平等院は、天台宗系の最勝院、浄土宗の浄土院という2つの寺院(共に鳳凰堂の西側にある)が共同で管理している。浄土院は明応年間(1492年-1501年)、最勝院は承応3年(1654年)の創始であり、平等院が浄土・天台両宗の共同管理となったのは、天和元年(1681年)、寺社奉行の裁定によるものである。





この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-05-23 21:21 | (寺社)京都の神社仏閣 | Comments(2)

大原宝泉院の「額縁の五葉松」

大原宝泉院の「額縁の五葉松」



宝泉院は額縁庭園で有名である。
その、額縁の中には樹齢700年の「五葉の松」が収まっている。これは京都市指定の天然記念物に指定されている。
このお寺は、観光客にも大変人気がある。春、桜の季節や紅葉の季節には常に40・50人が並んでいる。
拝観客は、五葉の松の見える座敷に通され、境内入口で渡されたお抹茶券と交換に一服の抹茶と茶菓子を供される。
また、境内には宝楽園という庭園もつくられている。

このように、立派な五葉松が目の前に広がる。
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駒札には五葉松の説明が載っている。
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丁度額縁に入ったようだ。
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手入れの行き届いている。
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裏から眺めていても豪快さが素晴らしい
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坊内にある「血天井」は、関ヶ原の戦いの前哨戦となった伏見城の戦いの際に徳川家臣鳥居元忠以下数百名が自刃した伏見城の床板であり、その霊を供養するため天井板としているものである。
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この天井板は生々しさを思い起こさせる。
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建物の出口近くに木炭で作られた「木琴?」が置かれていた。
リクウェストして弾かせていただいたが、金属製の響きのあるいい音階が作られている。
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ここはのんびり、ゆっくり抹茶を飲んでお菓子を食べて、というのが似合うところだ。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2012-05-23 18:15 | Comments(2)