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柳生の里『柳生花しょうぶ園』を訪ねて

柳生の里『柳生花しょうぶ園』を訪ねて



そろそろ花しょうぶの季節を迎えているので、ネットで検索してみた。
あまり想像がつかない“柳生花しょうぶ園”というのが目に入った。
柳生の里はかなり前に出かけたことはあるが、最近行ってなかったので行ってみようということになった。

柳生には、京奈和自動車道を城陽ICから終点木津まで一直線に行き、そこから井出町をとおり、般若寺経由で柳生に向かった。井手町からはしばらく進むと曲がりくねった山道を進むこと30分程度で柳生の里に行き着くことができた。
この柳生の庄は開けた盆地にあり、のどかな農村地帯であった。

柳生陣屋へ向かう道を右にそれると柳生花しょうぶ園の看板が見えてきた。
(近くの公営駐車場は有料だが、この園の駐車場は無料なので間違わないように)

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入園料は、650円だが、咲き初めということもあり、500円に割り引いてくれた。
なかなか良心的である。

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中に入ると、確かに未だ早いが結構咲いており、こんな感じなのをご覧いただきたい。

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私は知らなかったが、かなり歴史がある庭園のようで、なかなか整備された立派である。
また菖蒲だけでなく上のほうには四季の花が植えられていた。

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この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-06-09 13:32 | Comments(0)

柳生新陰流、石舟斎の『柳生の里』は山奥の静かな里

柳生新陰流、石舟斎の『柳生の里』は山奥の静かな里


柳生家とは、
柳生家の発祥地は大和国添上郡柳生郷(現奈良市柳生地区)で、大和国北部にある。
また「楊生」・「夜岐布」・「夜支布」・「養父」とも記され、いずれも「やぎう」と発音するという。

戦国期に、上泉信綱から新陰流を相伝された柳生宗厳(石舟斎)は、永珍(宗珍)から8代目の子孫に当たる人物である。

宗厳は戦国時代に、松永久秀に仕えたが、その後、黒田長政の仲介により当時秀吉に次ぐ実力者であった徳川家康と出会った宗厳は、家康の前で「無刀取り」を披露したことにより、兵法指南役に迎えられる。
しかし、宗厳は当時、すでに66歳という老齢だったため、代わりに、五男の柳生宗矩を指南役として推挙している。
家康に仕えた宗矩は、大いに活躍した。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは家康の命を受けて大和の豪族の調略に従事し、西軍の後方攪乱作戦も務めた。
翌年、その功績により旧領2,000石に加えて新たに1,000石を加増され、徳川秀忠の兵法指南役となる。宗矩は秀忠からの信任が厚かったと言われている。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では徳川軍の大和国の道案内役を務め、翌年の大坂夏の陣では秀忠の身辺警護を務め、敵兵7名を斬り殺したという。

元和7年(1621年)からは徳川家光の兵法指南役となり、寛永6年(1629年)には従五位下但馬守を叙任する。
寛永9年(1632年)には総目付(後の大目付)に任じられ、3,000石を加増される。
寛永13年(1636年)には4,000石を加増され、合計1万石の大名となる(柳生藩)。
寛永19年(1639年)にも2,000石、翌年にも500石を加増され、合計して1万2,500石を領する大名となったわけである。

柳生の里はのどかな農村という感じである。

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柳生陣屋を下りたところに、柳生八坂神社がある。
もと奈良春日大社の第四殿比売大社をまつっていたが、宗冬の時代に大保町にある八坂神社の分霊(素戔嗚尊(すさのうのみこと))をここに祀り八坂神社としたとある。

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ここ柳生の里は、東海自然歩道にふくまれている。

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柳生藩の陣屋(城)。
柳生藩は1万2千石の小大名で、柳生宗矩以来、将軍家の剣術師範役を勤めてきているが、小大名のまま幕末を迎えている。
その結果か否かは分からないが、重層な城構えではなく小規模も陣屋構えとなっている。
また、柳生の里は城下町の体裁とは異なるようで、武家屋敷の配置からも、柳生の里全体での城構えといっていいのかもしれない。

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柳生藩家老屋敷
この建物は、作家の山岡荘八氏が昭和39年に購入し、かなり手を入れて改修したらしい。
現在は、ご子息の山岡賢二氏(参議院議員)から昭和55年に寄贈され、奈良市の所有となっている。

柳生藩家老の小山田家は重厚な構えとなっている。

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柳生家系図
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小山田家の分家の構えも立派である。
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このほか、柳生陣屋の高台を下りると、向かいに小高い山があり、その山道を上に、柳生家の菩提寺の「芳徳禅寺」がある。
ここは、臨済宗の寺院で、柳生宗矩が父石舟斎の菩提を弔うために建立したもので、本堂裏手には宗矩の墓石を中心にして、石舟斎・十兵衛など柳生一族の墓石が80基あまり並んでおりなかなか圧巻である。




この項 <完>

by mo-taku3 | 2013-06-09 12:55 | (歴史)関西史 | Comments(0)